「あら、タカくん。ごめんねぇ、すぐこのみ呼んでくるから」
 柚原家において俺の朝の訪問は最終ラインを意味する。
 ここでなんとしても起きないと、このみの遅刻は確定だ。
 逆に言えば、俺が来るまでなら寝ていても平気だということを小賢しくもこのみは学習しているようだった。
 ……ちょっと釈然としないよね。
 もしかしたらメイドロボが必要なのは俺よりもこのみのほうなんじゃないかと思う。
「お待たせー」
 どたどたと慌しい音と共に、制服姿のこのみが階段を駆け下りてくる。
「それじゃあお母さん、いってきます」
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい。このみもタカくんも気をつけてね」
 バタンとドアを開け、このみと並んで走り出す。
 そこで気づいたのだが、このみのやつはよほど慌てていたのか、髪が寝起きのままですとアピールせんばかりにところどころ跳ねている。
 仮にも女の子だってのに、そんなんでいいんだろうか。
「このみ、ちょっとこっちこい」
 いったん足を止め、このみの腕を引っつかむ。
「わわっ!? たっ、タカくん?」
「ほら、じっとしてろ」
 ぐいっとこのみの頭を引き寄せた。
 そうして髪を一度ほどき、それをざっと簡単に手櫛で梳いてやる。
「えへー」
「こら、寝るなっ」
「だって気持ちいいんだもん」
 俺に寄りかかったまま目を瞑ろうとするこのみを軽く小突いて、きちんと髪を結いなおす。
「よし。こんなもんか」
「タカくんありがとー」
「ぐぇっ。バカ、急に飛びつくんじゃない!」
「えへー」
 人の話を聞いていないのか、このみは俺の首に腕を回して負ぶさったまま離れない。
「ったく、時間がないんだから急ぐ……ん?」
 背中に引っ付いているこのみを振り返ろうとしたとき、異様なプレッシャーを感じた。
 きょろきょろと周囲を窺ってみると、ふと視界の端に赤い髪が映る。
 それは我が家の玄関からそっと顔を覗かせ、こちらを見ているミルファだった。
 心なしか、妙に膨れっ面をしているように見える。
 ミルファは俺と視線が合うとわざとらしくぷいっと顔をそらし、そのまま顔を引っ込めてパタンと玄関を閉めてしまう。
 何か怒らせることをしたんだろうか……。
「タカくん、遅刻しちゃうよ?」
「……って、そうだった。おい、このみ、早く降りろよ」
「えー。このまま行こうよー」
「バカ言うなよ!」
「ほら、タカくん時間時間」
 このみはてことして降りようとせず、それどころか無責任に煽ってくる。
「ああもう、わかったよっ! くそっ、急ぐぞ」
「わーい、タカくん号れっつごーであります」
 ミルファの態度も気になったが、このみを首にぶら下げたまま走るという苦行が、あらゆる考え事を俺の頭の中から押し流したのだった。


 朝な夕なに〜夕の陣〜


「ただいまぁ」
 今日は朝一番から体力を使わされたせいで、一日中だるさが尾を引いていた。
 それは授業中はもちろん、放課後になってからも変わることがなく、珊瑚ちゃんたちのお誘いも今日は辞退してさっさと帰ることにしたくらいだ。
「おかえり貴明」
 靴を脱ぐより早く、ミルファが玄関まで駆けてきてお出迎えをしてくれる。
 一人暮らしをしていたからこそ思うことなんだろうが、こうして挨拶をする相手がいるというのは些細な事ながらどこか嬉しいものがある。
 座ったまま靴を脱ぎながら、そんなことを思う。
「今日は直接帰ってきたんだね」
 週の半分くらいは学校帰りに姫百合宅にお邪魔するというのが習慣化してしまって結構経つ。
 普段ミルファは朝早く家に来て俺を見送ると、一旦帰ることもせずに、そのまま俺が帰ってくるまでの間に掃除や洗濯などの家のことをあれこれとこなしてくれている。
 学校帰りに姫百合宅に寄ることになると、向こうについてから家に電話を入れるとミルファも帰ってくるという暗黙のルールみたいなものも出来上がっていた。
 しかし家事を一手に引き受けてくれることも言い換えれば我が家のことで大きな負担を負わせているわけだし、、変則的な帰宅パターンにしても俺の一貫性のない都合で振り回してしまっているわけで、さすがにこうして厚意に甘えるばかりというのは心苦しくもあった。
「なぁミルファ。世話を焼いてくれるのはありがたいんだけど、俺は朝か夜かどっちだけかでも十分だぞ? せっかくなんだしもっと自分の好きなことに時間を使えばいいじゃないか」
 これまでにも何度か同じようなことを言ってみたのだが。
「使ってるよ、好きなことに」
 このように、ミルファはあくまで頑なに聞き入れようとしなかった。
 その度に本人がそう言ってくれるのだからと一応は納得するのだが、やはり時間が経つとまた申し訳なさが沸き立ってきてしまい、何度も同じようなやり取りをしてしまっている。
「それに、こうして貴明の帰りを待つのって、新婚さんみたいじゃない?」
 満足げな表情を浮かべ、ミルファは若妻よろしく俺のカバンをひょいと持ち上げ、両手に抱えた。
「あ、いや……どうだろ」
「むー、なぁにそれ」
 答えに窮する俺の反応を見た途端、一転して不満そうに唇を尖らす。
 そんなこと言われたって、どう答えればいいものかわからないのだから仕方がない。
 こういう話は否定も肯定もしづらいから困るんだ。
「そういや、今日はシルファは来てないんだな」
 話を反らそうとした苦肉の策だったのだが、口にした後でまずいことを言ったことに気が付いた。
「……今日は来てないけど」
 あーあ、やっぱり地雷を踏んだか。
 ミルファの表情はさらに険のあるものに変わっていき、それはもはや『不満そう』ではなく『不機嫌そう』と形容するに値した。
 玄関先に座り込んだまま、その場の微妙な空気に気後れしてしまい立つに立ち上がれない。
「貴明は……シルファが居た方がよかったの?」
「い、いや、そんなことはないけど」
 どうもミルファは他の女の子の話が俺の口から出るのをあまり好まないらしい。
 ミルファの好意を素直に解釈するならば、それは嫉妬の類に近い感情なのかもしれない。
 これまでにも何度も同じ失敗をしてその度に懲りているというのに、我ながらまったく学習しないヤツだ。
「ほら、最近シルファもよく遊びに来てたから、今日は居ないんだなって思っただけだよ」
 なんとかフォローしようとあれこれと言葉を言い連ねてみる。
 嘘ではないが、自分でもちょっと言い訳がましく聞こえる。
「シルファが来ると貴明っていっつもシルファばっかり構うんだもん」
「え、そうかな?」
「そうだよ」
 カバンをぎゅっと抱きすくめ、これ見よがしに頬を膨らます。
「貴明たらさ、シルファには頭撫でるし、膝枕だってしてあげるし、この前なんか……」
 これまで俺がシルファにしてきたことを、一つ一つ、まるで罪状を読み上げるかのように羅列していく。
 もしかして相当根に持っていたんだろうか。
「違うって。別にシルファを特別扱いしてるってワケじゃなくって」
「そうだよね、シルファじゃなくってもおんぶしてあげたりするんだもんね、貴明は」
「……はは」
 つい乾いた笑いが漏れる。
 あー、すっかり忘れてたよ今朝のこと。
 あの時は機嫌悪そうに見えたけど、実際不機嫌でこのみを背負ってたことに対してご立腹だったのか。
 なるほどなぁ、ミルファからするとあれもダウトってことか。
 幼い頃からあんなスキンシップはしょっちゅうだったせいもあってあまり意識がなかったが、このみもカテゴリ的には立派に女の子ということだ
 どう言い訳したものかと考えを巡らせていると、すっと背後から首元に腕が回される。
「えっ?」
 咄嗟のことに驚いたが、すぐに状況を理解する。
 ミルファが今朝のこのみと同じように……いや、もっと強くぎゅっと抱きついているのだ。
 自分の体を目一杯俺の背中に密着させると、ミルファの吐息が吹きかかるくらいの耳元で、ぽつりと呟く。
「……ダメなんだからね」
 何がと尋ねるよりも早く、ミルファは言葉を継ぐ。
「ダメなんだからね。ここは私の指定席なんだからっ」
 そう言うと、誰にも譲らないのだと主張せんばかりに、首に回した腕に一層力を込める。
 ちょっと息が止まりそうになりながら、その言葉にミルファがまだクマ吉だった頃の記憶が浮かび上がる。
 俺の体をジャングルジムみたいに登りまわってたっけな。
 ある意味完全制覇を果たされていた。
「貴明の背中も、膝も、頭の上も、全部私の場所っ」
「いや、頭の上はさすがに……」
 今登られると首の骨がぽきっといくことは間違いない。
 しかしどうやらそれは今この場で指摘するには無粋なことだったらしい。
 さっきのような感情をぶつけるような力任せな抱擁と違い、今度は明確な意図の元に首を絞められる。
 力はどんどんと強まり、次第に呼吸もままならなくなってくる。
「わ、悪かった、ギブッギブッ!」
 慌ててミルファの腕をぱしぱしと叩く。
 本気で謝っているのを察してくれたのか、ミルファも腕の力を緩めてくれた。
「もうっ、ほんとに女心がわからないんだからっ。貴明のそういうところも好きだけど、たまに嫌いっ」
 いまひとつわかりにくいが、要するに今は嫌いってことだろうか。
「悪かった。ごめん」
「……いいよ、許してあげる。だって今日はこうしてぎゅってしても嫌がらないし」
 別にいつもだって嫌がっているわけじゃない。
 ただ女の子に抱きつかれるなんて恥ずかしいし、どう反応していいのかわからず、逃げ出してしまうんだ。
 我ながら進歩がないとは思うけど、これだけはいつまで経っても慣れそうにない。
「いつも抱きつくと振りほどこうとするんだもん。それって、結構不安なんだよ?」
「う……。ごめん」
 腕をほどいて立ち上がったミルファに倣い、俺も立ち上がる。
「私はこんなに貴明のこと好きなのに。貴明はそうじゃないのかなって。もしかしたら私のこと、迷惑なのかなって」
 正直言えば意外だった。
 珊瑚ちゃんやイルファさん並みに押せ押せのミルファがそんなことを考えていたとは。
「私ね、貴明のお世話が出来るようにってお料理だって覚えたし、掃除も、洗濯も、裁縫だって練習したんだよ」
 それは……確かにイルファさんもミルファの家事レベルが非常に高くなっていると驚いていた。
 そういえばミルファはもともと家事はあまり得意な方ではなかったと聞く。
 本人の口からそう聞くのは初めてだったからあまり意識していなかったが、本当に俺なんかのために覚えてくれたのか。
 不覚にも感動してしまった。
「ミルファ……その、ありが」
「胸だって貴明のために姉さんより3cmだって大きくしてもらったんだから」
「……」
 拳を固く握り締めてふんっと息巻くミルファに一言だけ物申したい。
 それは誤解です。
「ま、まあ胸はともかく……」
 こほんと咳払いをして、仕切りなおす。
「ありがとう。ミルファの気持ちはすごく嬉しいし、迷惑だなんて思ってないよ。その、くっつかれたりするのだって嫌ってワケじゃないんだ。ただちょっと……緊張しちゃうだけで」
「……本当?」
「ああ、本当」
 いつもの凛としたのとは違う、すがるような視線。
 今までずっと、不安を胸に溜め込んできていたのかもしれない。
 あの気丈なミルファをここまで追い詰めていたと思うと、胸が痛んだ。
「ミルファにはすごく助けられてるし、迷惑なんて思ったこと一度もないよ。それどころか逆に感謝しても足りないくらいだ」
 ぽんぽんと、頭を撫でてやる。
 思い返してみると、今のボディになってから俺のほうから積極的に何かをするということはほとんどなかった。
 頭を撫でてやるのだってもしかしたら初めてかもしれない。
 これからは、もっとミルファのことを思いやってあげないと。
 そうした意味も込めて、ゆっくりと頭を撫で回す。
「まあ、でもやっぱりあんまり引っ付かれたりするのは苦手だから少し遠慮してもらえると」
「嬉しいっ!」
 助かるな、と最後まで言い切る前に、ミルファはがばっと、今度は前から思い切り抱きついてきた。
「ちょ、ちょっとミルファっ」
 軽く押し返そうとするが、ぐいぐいと引っ付いてくるミルファの前には何の意味もないささやかな抵抗だった。
 ……仕方がない。
 さっきの今ということもあり、強く拒絶もできない。
 ここは大人しく抱きつかれたままでいることにする。
「ねえ貴明、私これからも貴明のお世話してもいいんだよね?」
「ああ、もちろん。俺のほうからお願いしたいくらいだし」
「そうだよねっ、貴明、私がいないと全然ダメだもんねっ」
 さっきまでのしおらしさはどこ吹く風、あっという間にいつもどおりに戻ってしまっている。
 とはいえ、ミルファのセリフを否定するだけの材料が揃っていない俺は苦笑するしかなかった。
 ミルファは眩しいくらいの笑顔。
 見ていて微笑ましいはしゃぎっぷりだった。
「ねえ貴明、じゃあ私これからはここに住んでいいよね?」
 俺も精一杯の笑顔を浮かべ、優しく答えてやった。
「それは却下」

 

end