冬の朝は総じて起き難いものだ。
寒さから逃れようと本能的に布団のぬくもりを求め、起き上がろうという気力を根こそぎ削がれてしまう。
かててくわえて、体が更なる睡眠を欲しているとなればそれこそ寝過ごすことなど日常茶飯事と化すだろう。
一人暮らしなんてことになれば、その誘惑に打ち勝つのは困難極まりない。
両親が家を空けて一人暮らしを始めた当時、冬が来たら遅刻の一つや二つ覚悟しなければダメかと思っていた俺だったが、かくして救いの神は現れた。
「おはようございます、パパ。朝ですよー」
不意に口付けて
「パパ、そろそろ起きないと遅刻しちゃいますよ?」
「んー」
わかっているが、なかなか踏ん切りがつけられない。
布団のぬくもりに包まれていたい欲求と戦う。
「起きてくださいー。お寝坊はダメですよぉ。パパァ?」
ゆさゆさと布団ごしに揺すられる。
その緩やかな振動がまた心地よくて……。
ダメだ、起きろ!
気を抜くとまたまどろみに落ちてしまいそうになるのを必死にこらえ、もぞもぞと布団の中で数秒後に襲ってくるであろう寒さに備えて身構える。
覚悟を決めて、かかっている布団をめくり上げて上半身を起こす。
「……ん?」
「おはようございます」
「あ、うん。おはよう」
にっこりと極上の笑顔を向けてくれるシルファに俺も笑い返す。
だが、その頭の中には小さな違和感。
覚悟を決めてたわりに、あまり寒くない。
心頭滅却すれば火もまた涼しと言うが、その逆もまた然りなのだろうか。
格言というものもあながちバカにできないものなのかもと考えている俺の耳に、微かに低く唸るような音が届く。
「あれ、エアコンが……」
部屋に備え付けられているエアコンが温かな風を送り出していた。
おかしいなと昨夜の記憶を掘り返す。
確か自動で切れるようにしておいたはずなのに。
「あの、ごめんなさい、さっき来たときにパパが寒くないようにって勝手につけちゃいました」
「ああ、シルファがつけたのか」
「はい……」
勝手に、と自分でも言っているが、どうやらいけないことをしてしまったような気でいるらしい。
さっきまでの笑顔とは打って変わって、申しわけなさそうに俯いて小さくなっている。
「謝らないでいいよ。ありがとな、シルファのおかげで朝から寒い思いをしなくてすんだよ」
「あ……はいっ」
いつものように軽く頭に手を乗せてお礼を言うと、シルファはぱぁっと表情を輝かせる。
「シルファは起こし方も優しくて助かるよ」
「えっ、そ、そうですか?」
「うん」
気付けばしみじみと頷いてしまっていた。
ミルファは結構強引な手を使ってくるものだから、起きようというよりもこれ以上寝ていられないという気分になるんだよな。
無防備に寝ていると身の危険を感じることがたまにある。
起こすという目的を考えればとても効果的なんだろうが、こっちとしては目覚め爽やかとはいかない。
それに引き換えシルファは非常に穏やかな目覚めを提供してくれる。
「えへへ。誉められちゃいました」
いつも以上に熱心に頭を撫で続けていると、シルファもそれを誇るように小さく笑う。
「さてと」
布団から出る前に大きく体を伸ばす。
それを引き金にしたように大きな欠伸をすると、ぴりっと口に痛みが走った。
「つっ」
冬場は空気が乾燥しているからな。
後でリップクリームを塗っておいたほうがいいかもしれない。
足にかかっていた掛け布団をのけ、ベッドから腰を浮かそうとする。
「ぱっ、パパ!?」
「ん??」
その途端、シルファが声を張り上げる。
驚いてそちらの方を向くと、シルファはわなわなと震え、泣きそうな顔をしているではないか。
「どっ、どうかした?」
むしろ俺が何かまずいことをしたのかと不安に思ってしまう。
シルファは震える手をゆっくりと上げ、俺に向って指を差して。
「ち……」
「ち?」
「血が出ていますっ!」
叫ぶようにそう言った。
「えっ、どこ?」
言われて自分の体を見下ろすが、血の赤はどこにもない。
怪我をした記憶も無いし、かさぶたでも剥がれたのかとも考えたがそもそもそんなものがあった心当たりが無い。
「あのっ、唇から」
「唇?」
それを聞いてやっと合点がいった。
多分さっき欠伸したときに走った痛みがそうだったんだろう。
口元を軽く親指で拭ってみると、そこには案の定うっすらと血が付いていた。
「あー、ほんとだ」
自分の血を見た途端にちくちくとした痛みを自覚してしまう。
「大丈夫なんですか!?」
「大丈夫だよ。これくらいなら怪我のうちに入らないって」
大袈裟なくらいに心配そうな顔をするシルファに、どうってことないと笑って見せる。
それでもシルファの表情から不安が消え去る様子はない。
「でも……」
「本当になんともないよ。これくらい舐めとけば治るし」
以前から自分の周りには過保護だったり心配性だったりする人が多いとは思っていたが、シルファまでもがその例に漏れることなくそうだったとは。
苦笑しながら唇に舌をそっと這わせると、じんわりと鉄の味が染みてくる。
口の中だったりしたらこのまま口内炎になっていただろうから助かったと取りとめもないことを考えていると。
「わかりましたっ。舐めればいいんですね!?」
勢いよく立ち上がったシルファががばっと俺に覆いかぶさってくる。
まるでミルファが乗り移ったんじゃないかと思うような突然の行動に呆気に取られる俺をよそに、シルファは躊躇うことなく顔を近づけると。
ぺろんと。
唇に生暖かい何かが触れた。
「……へ?」
驚くとか、慌てるとか。
そういった感情を丸ごとどこかに置き忘れたように、ただただ頭の中が白く染まった。
「へむっ」
ぺろっぺろっとリズムよく這う湿った感触に、じわじわと今の自分の状況が意識の端々に染み渡ってくる。
俺は今。
シルファに唇を。
舐められている。
ゆっくりと噛み砕くようにして理解した現状は、感情のメーターを吹っ切れさせるには十分なものだった。
「なっ、なにしてるの!?」
「パパの怪我を治すんです」
声が上擦るも構わず問いただすと、シルファは舌の動きをいったん止め、いたって真面目な顔で返答する。
そのあまりに毅然とした受け答えに、思わずああそうですかと納得しかけ、違う違うと首を振る。
まるで何しているのと聞いたら呼吸と返されたような、なんとも釈然としない問答に俺は再び言葉を失ってしまう。
なんと言えばいいのかと言葉を探すが、冷静さというものを残さず放り投げてしまっている今の頭ではまともな言葉が浮かばない。
あーとかうーとか唸っている俺に、シルファはちょこんと首を傾げ、もういいですかと目で問うてくる。
「いや、いいっ、自分で」
自分でやるからいい。
そう紡ぐはずの言葉はシルファの舌によってかき消されてしまう。
俺の血を見て動揺しているのか、いつものシルファらしからぬ強引と言ってもいいほどの積極さ。
あるいは、俺のことを心配するあまりの行動。
そう考えると、この今にも泣きそうな顔にも説明が付く。
「すぐに治してあげますから」
もう大丈夫だから。
そう口にしようとしても、ぺろぺろと口を舐められ、まともな言葉にならない。
さながら犬にじゃれついてかれているような……。
次第にシルファにも熱が入ってきたのか、だんだんと俺のほうへと体重がかかってきて、いつの間にかベッドに押し倒される形になってしまっている。
それでもシルファは舐めるのをやめようとしない。
いよいよ犬の戯れのようだった。
だが、あくまで構図的にそうであるだけで、現実に目の前にいるのは飛び切り可愛い女の子というのが大問題だ。
「もっ、もういいって」
辛うじて口にしたその一言も、今のシルファの耳には届いていないのか何の反応もない。
シルファの体重を全身に受け、ベッドに体が沈む。
待って。
本当に待って。
シルファは娘……はちょっと無理だけど、妹のように思っている。
それでもシルファは俺からすれば可愛い女の子なのだ。
それがこんな状況になってしまえば、俺だって男だ。
ハッと気付くと、シルファの背中に自分の腕が回されようとしている。
ダメだ。
シルファは家族。家族。家族。
何度も自分に言い聞かせるが腕は脳の支配下から逃れたかのように言うことを聞かず、じりじりとシルファの背中に向って伸びていく。
止まれ止まれ止まれ。
一心に命令を送り続け、俺の腕はシルファの体に触れるか触れないかというギリギリのところで踏みとどまる。
のだが。
「んむっ!?」
ちろっと、シルファの舌が俺の歯に触れる。
「えっ? きゃっ」
気付いたときには、俺の腕の中にシルファがいた。
否、抱き締めてしまっていたのだ。
幸か不幸か、皮肉なことにシルファを腕の中に収めた途端に、咄嗟の衝動はそこでなりを潜め、全身が理性の制御下に置かれた。
「あ、あの……パパ?」
「……えっと」
きょとんとした顔で俺を見上げるシルファ。
見ればその頬は薄く朱に染まっている。
困った。
ぎゅっと強くシルファの柔らかな体に食い込んだままの手を小さくわきわきと動かし、この先どうすればいいのか途方にくれる。
「あんっ」
手の動きがくすぐったかったのか、腕の中のシルファが小さく身じろぐ。
その可愛らしい声に、俺の理性の鎖はギリギリと音を立てる。
「パパ……」
シルファは俺の瞳を覗き込むようにじっと見つめてくると、ふっと表情を綻ばせ、俺にぎゅっと抱きついてくる。
やわらかくて温かな感触がますます密着する。
「パパにぎゅぅってされるのって……すごく気持ちいいです」
まるで布団の中に身を埋めるような、安らぎの顔。
もうダメだ。
気付けば俺の体は再び理性の制御から離れ、シルファをさらに力強く抱きしめようとする。
のだが。
「ちょっとぉ。シルファ、貴明まだ起きないの?」
突然部屋のドアが開くと同時に、ミルファの声が飛び込んでくる。
その瞬間の俺の反射神経は神がかっていたと思う。
自惚れでもなんでもなく、我ながら感心してしまうほどの反応速度。
咄嗟にシルファの背中に回していた手の片方をシルファの頭の上に持ってくると、さも今までずっとそうしていたかのようにかいぐりかいぐりと頭を撫で回す。
「……貴明、なにやってるの」
しばしの間呆気に取られたミルファも、現在室内に繰り広げられる状況を把握し、怒りを露に問いただしてくる。
そりゃそうだよね。
傍から見れば今の俺とシルファは抱き合っているように見えるのだし、というか、ついさっきまではまさにそうだったわけで。
だが、俺の咄嗟の機転でその最悪の状況からの抜け道を一つ作り出すことに成功していた。
「やあ、おはようミルファ、いい朝だね!」
シルファを撫でる手を一度止め、まるで今ミルファに気付いたかのようにしゅたっと片手を掲げ、わざとらしいまでに爽やかに挨拶をする。
「……」
遠慮なく訝しげな視線を投げかけてくるミルファ。
その頬は大きく膨れ、不機嫌であることを隠そうともしない。
あ、ちょっと涙目。
「貴明!」
「まっ、待て! 違うんだ、これは決してミルファが考えてるようなことじゃ」
「じゃあなんでシルファを抱いてるのよっ」
さながら浮気現場に踏み込まれたような押し問答。
若い身空でこんな気苦労を負うなんて勘弁してくれとも思うが、今日ばかりは俺に責任の一端があるせいでそうも言ってられない。
とにかくミルファを納得させようと、今さっき思いついたシナリオどおりのセリフを口にする。
「これはだな……その、寝過ごしそうになったところを起こしてくれたシルファへのお礼で……」
…………。
なにそれ。
思わず自分で自分につっこんでしまう。
いざ言葉にしてしまうとこの上なく陳腐だった。
咄嗟に思いついた程度の言い訳では所詮この程度か。
それでも一度口にしてしまった以上、このセンで押し通すしか道はない。
「いやぁ、ありがとなシルファ。おかげで寝坊せずにすんだよ」
言いながら、これはお礼なんだよと強調せんばかりに再びシルファの頭に手を伸ばす。
シルファは突然の話の流れについていけず不思議そうに首を傾げながらも、嫌がることもせず大人しく俺の手を受け入れる。
わしわしと撫でられていると、いつしか気持ち良さそうに目をつぶる。
「……お礼?」
なおも疑わしげな眼差しを向けながら、ミルファが確かめるようにぽつりとそう呟いた。
「そうそう、お礼お礼」
ここを逃してはならないとぎこちなく笑みを浮かべ、何度も頷いてみせる。
「はふぅ……」
そんな俺とミルファをよそに、シルファは一人俺の腕の中でご満悦の様子だった。
「ふーん。そうなんだ」
えっ。
危うく声が漏れそうになる。
まさか今ので納得したのか?
てっきりさらに詰め寄られるものとばかり考えていたのに、返ってきたのは予想外としか言いようのないほど意外な反応だった。
自分でも無理があるだろうとしか思えないわざとらしい茶番劇だったというのに。
「お礼なら仕方ないわよね」
しかしミルファは先ほどまで身に纏っていた怒りを発散させ、そう言ってとにこりと笑って頷いている。
俺が思わぬ才能を発揮してしまったのか、はたまたミルファが思いのほか単純もとい純粋だったのか。
なにはともあれ、人生で五本の指に入るであろう危機的状況を脱することが出来たようだ。
「はい、シルファもここまで。もう十分でしょ?」
「やぁん」
まだ物足りないとばかりに俺に腕を伸ばすシルファを無理やり引き剥がすと、ミルファはホッと一安心している俺に笑顔を向けてこう言った。
「貴明、もちろん私が起こしたときも、熱い抱擁して頭をやさしーく撫でてくれるんだよね?」
「……え?」
まったく考えてもいなかったこの先の話に固まる俺に構わず、ミルファはうっとりと胸の前で腕を組む。
「明日の朝が待ち遠しいなぁ」
「あの、明日の朝って……」
「楽しみにしてるね、貴明。あ、もう朝ご飯できてるから降りてきてね」
スキップしそうな足取りで、ミルファは部屋を出て行った。
「あぁ〜ん、パパぁ〜」
そのミルファに引きずられていったシルファの声が虚しく木霊する。
しばらく開いたままのドアを遠い目で見つめ、ハッと我に返った。
脳裏には先ほどのミルファの言葉が蘇り、思わず額を押さえる。
この場を切り抜けられた代償に、もしかしてこれから毎朝頭を痛ませることになるんだろうか。
虚空に問いかけても答えは返ってこず、部屋の中にはただゴウゴウと暖かな風を絶え間なく送り続けるエアコンの音だけが低く響いていた。
end |