HMX-17cシルファ。
 最近になって姫百合家へとやってきた彼女は、今のところは特に問題もなく一般社会に適応できているようだ。
 少し引っ込み思案でおどおどしたところもあるが、この界隈、特に買い物客御用達の商店街ではイルファさんミルファという前例がいたために、シルファのための土壌が出来ていたというのも幸いだったのだろう。
 姉二人の作り上げてきた環境のおかげもあって、今ではシルファも立派に街に馴染んでいる。
 出会った当初は打ち解けられるのか幾ばくかの不安を感じたものだが、俺も無事それなりに仲良くやっていけている自負はある。
 その証拠に、毎日のように家に通ってくるミルファにくっついてはしょっちゅう顔を出しに来てくれる。


 Sサイズの幸せ


 今日もまたシルファは我が家に遊びにやってきていた。
 ただいつもと違うのは、今日はミルファが定期メンテの日のために来られなく、シルファ一人ということ。
 シルファ本人はミルファに代わって今日一日俺の世話を、と意気込んでいたようだが、ああ見えてそつのないミルファが普段から小まめに家事をしてくれている我が家に、これといって必要に迫られる仕事はなかった。
 一日分の汚れ物を洗濯し、目に付くところを軽く掃除しただけで、あとはもうお昼まですることが特になくなってしまう。
「いつもお姉ちゃんばっかりずるい……」
 手持ち無沙汰になったシルファが珍しく他人への不平を零していたのが印象的だった。
 それにしてもミルファもシルファも、イルファさんの話では彼女たちは望みさえすればそれこそそこいらの人間なんかよりもよほど好きな暮らしが出来るはずなのに、どうしてこうメイドロボ本来の仕事を好むんだろう。
 人間で言えば本能みたいなものなんだろうか。
「でも俺は十分ありがたいよ。シルファがいなかったら、きっと洗濯なんかまた今度って後回しにしちゃってたし」
 ミルファが来るようになる前はいつもそんな感じで、気付けば洗濯物が溜まっていた。
 それを思うと今はとんでもなく精神的に高水準な生活を送れているなぁ。
「でも、もっとパパの役に立ちたいです」
 シルファはしゅんとうなだれ、肩を落としてこちらに歩いてくると、俺の座っている向かいの席の椅子をがたんと引き、そこに腰を下ろす。
 その落ちする姿を見かねて、ちょっとだけ手を伸ばし、ぽんぽんとシルファの頭を軽く撫でる。
 いきなり頭に手を乗せられて驚いたようだが、すぐにか大人しくなって素直に頭を撫でられている。
 時折くすぐったそうに肩をすくませるその仕草はどこか猫を思わせる。
「そんな気張らないでゆっくりしてればいいよ。その代わりお昼期待してるからさ」
 その言葉にシルファはぱぁっと顔を輝かせると、はいっと張り切った返事をする。
 もしも将来本当に娘が出来たら、こんないい子に育って欲しいもんだ。
「それにしても悪いな、せっかく手が空いてるのに相手してあげられなくて」
 本当ならどこかに出かけるなりなんなりしてあげられればいいのだが、生憎今日はやらなければならない課題がある。
 今もこうしてテーブルにノートと参考書を開いて難解な数式に挑んでいる真っ最中だったりする。
「いえ、パパも忙しいですから」
 そうは言うが、やはりその顔はどこか寂しげで、申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。
「タイミングが悪かったなぁ。ミルファがいればシルファも退屈しないですんだのに」
「いいんです。今日は私が勝手に一人で来ちゃったんですから。それに……」
 そこで言葉を切ると、もじもじと下を向き、時折顔を上げて窺うようにちらっっと視線を飛ばしてくる。
「それに?」
 先が気になって促してみる。
 シルファはますます恥ずかしそうに顔を伏せると、消え入るような声だけが聞こえてきた。
「パパと二人になれるの、久しぶりでしたから。その、いつもお姉ちゃんがいますし……」
「あ、ああ。うん。そうだね」
 ちらりと見えたシルファの顔は、なぜか顔が真っ赤だった。
 今の、別にそういう意味じゃないよな?
 ただいつもミルファがいるからたまには思い切り甘えたいとか、そういうことだよな?
 今の一言に込められたシルファの意図を推し量ることもできず、自分自身にそうだと言い聞かせることにした。
 でも……。
 本人がどういうつもりだったのかはわからないが、これまで父親とまではいかなくとも、兄貴面と言うか、保護者のようなつもりで接していたシルファの中に、一人の女の子を見つけてしまったのは変えがたい事実だった。
「パパ? どうしたんですか?」
 その声にふと我に返ると、すぐ目の前にはシルファの顔が。
 いつの間にかシルファは大きくテーブルに身を乗り出して俺の顔を覗き込んでいた。
「いやっ、別に何でもっ」
「……?」
 きょとんとした顔をしながらも、シルファはそれ以上追求をしてこなかった。
 きっと納得なんてしていないだろう、首を傾けた拍子にその綺麗な金の糸が舞う。
 そんな仕草からもシルファは、この子は俺のことを無条件で信じてくれているんだということがよくわかった。
 だから俺は絶対にその信頼を裏切るようなこと、彼女を傷つけるようなことはしてはいけない。
 そう思うと、乱れかけていた心が落ち着いてくる。
 うん、これまで通りにしていればいいんだ。
「よし!」
 気合を一つ入れ、改めて眼前の課題に集中する。
 早く終わらせることが出来れば、それだけシルファのために時間を割けるということなのだ。
 わからない問題は飛ばし、できるものから片付けていく、テストさながらの効率重視。
 ペンの走る音も軽快に、次々と問題を消化していく。
 この調子ならシルファをあまり長く待たせずにすむかも。
 そう思って少しだけ顔を上げると、シルファが両腕で頬杖を付いて興味深そうにじーと、それはもう凝視と言っていいくらいじぃーっと俺を見ている。
 ……え、睨まれてる?
 一瞬、何かシルファを怒らせるようなことをしただろうかと焦るが、その表情からすると特にそういうわけではないらしい。
 あくまで見ているだけで、俺と視線が合うと、もじもじと視線を少しさまよわせたあと、また俺のほうを見つめなおし、嬉しそうに笑う。
 そんな笑顔を見せられては、俺も笑い返すほかなく、へらっと表情を緩める。
「……」
「……」
 お互い言葉もなく笑いあうだけ。
 シルファはものすごい満足そうな顔をしてずーっとこっちを見ているものだから、俺のほうがなんだか照れてしまい、そそくさと机の上に視線を戻す。
 しゅ、集中だ集中。
 再び課題に没頭する。
 静かなリビングにかりかりとペンの音だけが響く。
 ……まだ、すごい見られてるよな。
 かすかに、いや、かなりびしびしと視線を感じる。
 再び顔を上げると、シルファはまたも嬉しそうに顔を綻ばせる。
 先ほどと同じようにしばし見詰め合い、また課題へ。
 その工程を何度ほど繰り返しただろうか。
「……あのさ、シルファ」
「はいっ?」
 喜の感情が迸るくらいのいい返事。
 その様子はさながらおあずけを食らっていた子犬がようやくそれを解除されたかのようなものだった。
「俺の方はもうちょっとかかりそうだからさ。その間好きなことしてていいんだよ?」
「あ……。はい」
 どうやらシルファの期待していたような内容ではなかったのらしく、一瞬落胆したような顔をする。
 もしかしたら俺の方がもう終わったのかと思っていたのかもしれない。
 だがすぐに気を取り直してシルファはいつもの笑顔を浮かべてくれた。
 しかし、シルファはそう言ったきり席を立とうとしない。
「テレビ見ててもいいし、読みたい本があるなら勝手に持ってきちゃっても構わないから」
「はい、ありがとうございますパパ」
 しかし動かない。
 ぎこちなく問題に向き直るが、シルファからの視線は一向に途絶えることがない。
「遠慮なんかしなくていいんだけど……」
「はいっ」
 そこには満面の笑顔。
 そこから察するに、特に遠慮しているようではなさそうだ。
 じゃあなにか、シルファは好きで俺なんかを眺めてるんだろうか。
「……俺なんか見てて楽しい?」
 率直過ぎた質問だったのか、シルファは顔を赤らめると、辛うじてそうしたとわかる程度にこくりと小さく首を縦に振る。
 すぐに何かに思い当たったように、おどおどと質問を返してくる。
「あ、あの、もしかしてパパは嫌……でしたか?」
「ま、まさかっ。いやあ、こんなのでよければいくらでも見ててよ、うん」
 片手を突き出してぶんぶんと振り、力の限り否定の意を表す。
 タマ姉やこのみをはじめ俺の周りの女の子というのはみんな押しが強く、いつの間にか自然と引くスタンスが身に染みてしまっているせいだろう。
 シルファのような引くタイプに対しては、同じ姿勢で接するとお互いに距離が出来るだけということを学習した。
 とは言っても、どうも俺は自分から押すのって苦手なんだよなぁ。
 珊瑚ちゃんも瑠璃ちゃんもイルファさんもミルファもみんな感情をストレートに表すタイプなので、シルファに会うまではてっきりそれが姫百合の家風なのかと思っていただけに、シルファの登場はある意味革命的なものだった。
 ちょっと落ち着かないが、害があるわけではないし。
 思考を切り替え、残る問題を解いてしまうことにする。
 ……のだが。
「うーん」
 既に定められた範囲は一通り目を通し、あとはその時に分からずに飛ばした問題だけ。
 まあ何が言いたいのかと言うと。
「……わからない」
 そりゃそうだ、だから飛ばしていたんだもの。
 こうなるとこれまでの快調は嘘のように手詰まりになる。
 あまり時間を費やしたくないという思いから、一応適当に埋めといて奮戦したことをアピールしておくかなんて考えも浮かんでくる。
「……ん?」
 なぜか手元が翳っている。
 顔を上げると、シルファが大きく身を乗り出して開いたノートを覗き込んでいた。
 まあつまり、顔のどアップが近くにあったわけで。
「うわぁっ!?」
 驚く俺をよそに、シルファは誰にともなく何かをぶつぶつと呟いている。
「し、シルファ……?」
 一体彼女の身に何が降りかかったのか知る由もない俺に出来ることといったら、及び腰で声をかけてることくらいだった。
「…………」
「おーい?」
 無視、というわけではなさそうだ。
 どうやら何かに意識を集中しているようで、俺の声に気付いていないらしく、シルファから反応は返ってこない。
 二、三度呼びかけてみると、ようやくシルファがこちらを向く。
「あの、私がお手伝いしてもいいですか?」
「へ?」
 飛び出てきた言葉に理解が追いつかない。
 手伝うって……?
「私、計算は得意なんです」
 そこまで言われてようやく要領を得た。
 俺の詰まっている問題を解く手助けをという意味か。
 なるほど、確かにメイドロボからすれば学校で教わる程度の数式なんてことはないだろう。
「ダメ……ですか?」
 俺の顔を覗き込むようにしてじーっと見つめると、少しだけ身を乗り出してくる。
 これはきっと無言の要求。
 自己主張をしたりわがままを言うのが苦手なシルファにとって、精一杯の行動なのだろう。
「私、パパの役に立ちたいんです」
 最後にそう言ったきり、シルファは何も言わず、不安そうな顔で俺を見上げる。
 ……せっかくここまで言ってくれてるんだし。
「うん。じゃあ……お願いしちゃおっかな」
「わ、私頑張りますっ」
 気合十分、珍しく大きな声を張り上げると、ぐっと力強く両の拳を握り締める。
 シルファがここまで喜んでくれるのなら、年下の……かどうかはわからないけど、精神的には年下であろう女の子に勉強を教わるというやや情けない絵を受け入れた甲斐があるというものだ。
「えっとですね、これはその前の問いの応用問題で……」
 早速シルファは机越しに授業を開始しようとする。
 だけどシルファの小柄な体には俺たちの間に横たわるテーブルの幅は結構な長さで、腰を浮かしたまま話を続けようとする。
「シルファ、そこじゃやりにくいだろ。こっち来たら?」
「いっ、いいんですか?」
「当たり前だろ」
 本当にシルファは遠慮深いというか引っ込み思案というか。
 シルファはおずおずと席を立って歩いてくる。
 たかが隣に座るくらいでずいぶんと緊張しているようだ。
 その動きはどこか小動物を連想させる。
 実に微笑ましい。
「失礼します……」
 上擦った声で一言断りを入れると、シルファはまるで薄氷に足を乗せるかのようにおずおずと腰を下ろす。
 ……俺の膝の上に。
 なんでさ。
「えへへ」
 ツッコミ待ち?かと思ったが、シルファ本人はえらいご満悦のご様子。
 どうやら素らしい。
 表情こそ見えないが、きっと見れば思わず頭を撫でてしまいたくなるような笑顔を浮かべていそうな声だった。
 一体シルファの人工知能はさっきの会話をどう処理したのかとか、俺はどう対処すべきなのかとか、いろんな考えが頭を巡る。
「えっと、それで続きですけど」
 そうこうしているうちにシルファは俺の膝に座ったまま数式の解法の説明を始める。
 まずい、今さらつっこめない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 太ももの上に感じる柔らかな感触に俺の思考能力は機能不全に陥り、完全にパニックを起こしていた。
「……というわけです。えっと、わかりますか?」
「…………」
「あのぅ……パパ?」
「えっ?」
 顔だけ振り向かせてこちらを見ているシルファの声が錨となり、遠い世界へ船出しかけた意識を何とかここに繋ぎ止める。
「あ、ごめん、何?」
「……ごめんなさい。やっぱり、わかりにくかったですよね」
「違う違う、そうじゃなくって。ちょっと考え事しちゃってて……」
「でしたらもう一回説明しても……いいですか?」
「うん、ぜひとも」
 そうだ、今は俺はシルファの親切に甘えている身なんだ。
 集中しろ、集中。
 思考を強制冷却し、シルファが膝の上に座っているという事実を頭の中から排除する。
 今の俺は数式を解くためだけに存在しているのだと思い込め。
「……なのでここで一度この座標を求めて……」
 シルファの華奢な肩越しにノートを覗き込み、その丁寧な説明に沿って自分の頭の中でも同じように計算を繰り返していく。
 前屈みの姿勢なため、シルファの顔が俺の顔の真横にある。
 なんなんだろうこのシチュエーション。
 目の前の数式よりもよほど難解な問題だ。
「これで最後に先ほどの座標を代入して計算すれば……」
「えーと……うん、こうかな」
「はい、正解です」
 決して肝心の答えは明かさず、それでいてまるで解答を見ているかのような懇切丁寧な解説。
 要所要所で与えられるシルファのヒントを元に、今度はきちんと答えをはじき出す。
「さすがパパです」
「いや、シルファのおかげだよ」
 それよりも膝、膝、膝!
 こんな緊張、入試のときでさえ味わえなかった気がする。
 ……まあ、緊張のベクトルが全然違うのだが。
 とりあえず、これでなんとか乗り越えた。
 安堵の溜め息を吐いているところに、こんな言葉が投げかけられる。
「それじゃあ、次の問題に行きましょう」
「…………」
 うきうきとページをめくるシルファを止めるなんて、俺にはとてもできなかった。

 

 結局、残っていた問題全部シルファと二人で片付けた。
 当然、シルファは俺の上に座ったまま。
 そして課題も終わり、ようやく緊張からも解き放たれるとホッとしたのがかれこれもう5分以上前。
「えへへ」
 シルファは依然、俺の膝の上にいた。
 猫のようにその身を摺り寄せ、俺の胸に小さな背をあずけ、こてんともたれかかってきている。
 珍しいといえばこれほど珍しいこともない。
 いつもならここまであからさまに甘えることはないのだが。
 ……ああ、そうか。
 一連の流れから鑑みるに、シルファの中では多分この行為は俺が誘ったことになっているのだろう。
 だからシルファもその言葉に甘えて……と考えれば納得がいった。
 何度も口から出かかった『もうそろそろ……』という言葉は、シルファの顔を見るたびに喉の奥へと戻っていく。
「シルファは何かしたいこととかはないのか? 俺も予定が空いたし、どこかに行きたい、とかさ」
「……お買い物」
「買い物?」
「はい、お買い物、一緒に行きたかったですけど」
 それならばと誘おうとするのだが、シルファの言葉はまだ続いていた。
「もう少し……こうしてたいです……」
 そんな幸せそうな顔をされては存分に好きにさせてあげたくなる。
 シルファは誰よりも甘え下手なのに、誰よりも甘え上手なのだと思う。
 こんな些細なことでシルファが満足してくれるなら……なんてことをこうして現に考えてしまっているのが、きっと何よりの証拠だろう。

 

end