家に帰ってきたらるーこがいた。
 もう会えないものだと思っていた彼女との思わぬ再会。
 彼女とのひと時は夢だったのかとさえ思いかけ、記憶もいつしか薄れゆくのだろうかと悲嘆にくれていたほどなのだ、嬉しくないはずがない。
 そんなるーことの再会を喜び、思わず抱きしめてしまったところまではドラマチックで言うことなしの演出だったのだが。
「大胆だな、うーは」
「……今自分でもそう思ってる」
 腕の中のるーこに、ぼそぼそと呟き返す。
 さっきは感情が高ぶって、ついこんな風にぎゅっとしてしまったのだが。
 ふと冷静になると、自分がどれだけ恥ずかしいことをしたのかを理解してしまい、じわじわと恥ずかしさがこみ上げてくる。。
 さっさと離せばいいのかもしれないのだが、その、なんとなくそのタイミングを逸してしまい、今もこうして抱きすくめたままなのだ。
「もう少し腕の力を緩めろ、うー」
 俺の胸に顔をうずめているせいか、るーこが話すと服越しにかかる吐息がもぞもぞとしてくすぐったい。
 が、俺はるーこを抱きしめる腕にいっそう力を込める。
 今はちょっと離しがたい。
「言葉が通じないのか、うー」
 もぞもぞと動き出するーこに、俺はそっとお願いする。
「ごめん、もうちょっとこのまま」
「……しょうがないうーだ」
 ぴたりと動きを止めてくれたるーこに、小さくありがとうと耳元で呟いた。
 一見すると、自分がすごいキザなことを言ったなぁという自覚はある。
 しかし実際のところは全然違う。
 俺の行動はそんなかっこいいものではなく、もっと情けない理由からのものだった。
 今、俺の顔は恥ずかしさで真っ赤になっているに違いない。
 それなのに嬉しさのあまり顔が笑ってしまっているし……もしかしたら感極まって涙が出てしまっているかもしれない。
 そんなおかしな顔、るーこに見せられない。
 だからこうして、ぎゅっと抱き締めたままでいる。
「うー、そろそろいいか?」
「う、ごめん、もうちょっとだけ」
 感情が収まるまでこのままにさせておいて欲しい。
 ……あと本音、やっぱりもっとるーこの感触を味わっていたい。
「もうダメだ、うー」
 が、るーこは先ほどと違い、今度はきっぱりと断ってくる。
「こんなにしっかりと抱かれていては、るーがうーを抱き返せない」
 すごく優しい声で、俺に体を預けたままるーこはそんなことを言ってくれる。
 思ってもみなかったセリフに、また一つ嬉しさがこみ上げる。
「それとも、うーはるーに抱かれるのはいやか?」
 そんなことあるはずがない。
 そう言う代わりに、俺は少しだけ、腕の力を抜く。
 るーこはそっと腕を俺の背中に伸ばすと、その腕にぎゅっと力を込めてくる。
 おかえり、心の中でそっと呟き、俺たちはしばらくの時間、お互いのぬくもりに身をうずめていた。


 セカンド・ストレンジ・エンカウンター


 と、そんな恥ずかしい出来事があったのが昨日のこと。
 今思い出しても顔が紅潮してしまうのだが、あの時は感情が高ぶってしまったのだから仕方がない。
 一度手から零れ落ちたと思ったものを掬い取ることが出来た喜びはなにものにも勝るのだ。
 そういうことにしておこう、うん。
 都合よく自己弁護を完了し、るーこの作ってくれた朝食を今はこうして食べているのだが、ふとるーこがこちらをじっと見ていることに気が付く。
 どうしたのだろうかと俺も箸をとめる。
「うまいか、うー」
「うん、すごくうまいよ」
 相変わらずるーこの料理の腕はかなりのものだった。
 さすが本人がグルメなだけはある。
「そうか」
 俺の答えに満足したように頷くと、るーこは食事を再開させた。
 そんな感じに和やかに食事が進んでいたのだが、ちらっとるーこの顔を見ると、あるものが目に留まる。
「るーこ」
「る?」
 呼びかけると、るーこはきょとんとした顔で食器に向かっていた顔をこちらに向ける。
 ああ、やっぱり。
 そうして真正面から見ることで、見間違いではなかったことが分かる。
「ほっぺ、ご飯粒ついてるぞ」
 意外と子供っぽいところを見て、なんだか微笑ましい気持ちになる。
「ほら、左の頬」
「そうか。ではよろしく頼む」
「へ?」
 頼むって……何を?
 発言の意図を測りかねて間抜けな声を漏らす俺だったが、るーこはそんなこと構いなしに、目を閉じると『んっ』とご飯粒の付いている方の頬を突き出してくる。
「……?」
 わけのわからないまましばらく眺めていると、るーこは目を開け俺のほうを見ると、不満げに文句を言ってくる。
「何をしている、うー」
「いや、それはむしろこっちのセリフなんだけど」
「こういうときはちゅーをしてほっぺの米粒を取るのだろう」
 いったい何を言っているのか、咄嗟に理解することが出来ない。
 ちゅーをして。
 るーこのほっぺの。
 米を取る。
「…………えええええええ!?」
 いつもの数倍の処理速度でようやくその言葉の意味を理解すると、何拍も遅れて驚きが押し寄せてきた。
 いやいやいや、ちょっとるーこさん、あなた突然何をおっしゃってるんですか。
「何を驚く。日本では恋人たちはそうすると聞いている」
 恋人だなんてはっきりといわれるとなんだか照れてしまう。
 ……ってそうじゃなくって、それはなんというか、どう考えても誤情報ではないだろうか。
 慌てて間違った知識を正してやろうとしたのだが、俺が口を開こうとした刹那。
「それともうーは、るーのことを許婚だと思ってくれていないのか?」
 すごく寂しげな顔で、そんなことを言ったのです。
 どうしよう、このタイミングで『それは勘違いだよ』などと言ったところで、るーこの性格からして俺がるーこのことを好きじゃないからやらないみたいに思われそうだ。
「……わ、わかった。るーこ、ほっぺ出して」
「る」
 再び目を瞑り、先ほどと同じ体勢になるるーこ。
 思わずごくりと喉が鳴る。
 ご飯粒の付いていない方の頬に片手を添え、ゆっくりと、柔らかなるーこの頬に唇を寄せていく。
 心臓がうるさいくらいにばくばくと脈打っているのがわかる。
「……るっ」
 舌先がるーこの頬に触れると、なにやら色っぽい声を出す。
 いっそう高鳴る鼓動に、このまま心臓がオーバーワークで破裂してしまうんじゃないか。
「るー」
 満足気に『るー』のポーズを決めるるーこから唇を離すと、口に含んだ米粒を飲み込む。
「ふぅー」
 恥ずかしさの冷めやらぬまま、安堵のため息をつく。
 人がもし恥ずかしさで死ねる生き物ならば、今のは確実に致死量だったことだろう。
「うーの愛情、しかと受け止めたぞ」
「そ、そう言ってもらえれば何よりだよ」
 さっきの今でるーこの顔をまともに見れる気がしない。
 だがるーこは、そんな俺の気も知らず、またまたとんでもないことを言い出してくれる。
「ではお返しだ」
「へ?」
 再び間抜けな声を漏らす俺。
 そんな俺に頬に、るーこはぴっと自分の指先を押し付けてくる。
「え、なに?」
 俺のほっぺたって何かのスイッチだったっけ、などと考えていると、るーこは先ほど俺がるーこにしたように、反対の頬に手を当てる。
 そうして、躊躇うことなく顔を近づけてきたと思うと。
「んっ」
 それはもうむちゅーっと。
 その柔らかな唇を俺の頬に押し付けてきた。
「な、な、な、な」
 先ほどの自分の行為に続いてお返しとばかりの今しがたのるーこの行動に 俺の感情メーターは吹っ切れてしまう。
 照れ、恥ずかしさ、嬉しさ、驚き、いろんな感情が一気に渦巻き、言葉が出てこない。
 自分が真っ赤になっているのが自覚できるほどに血管が脈打っている。
「るー」
 唇を離したるーこは、そんな俺を見るとにこりと笑って、お決まりの『るー』のポーズを取ると、そのあと何事もなかったかのように食事を再開させた。
 あ、でもよく見るとるーこの頬もほんのりと朱に染まっているのがわかる。
 ……くそ、そんな顔されるとなんだか俺の方が余計に照れちゃうじゃないか。 
 結局、このあと俺が平静を取り戻すのに十分近くの時間を要したのだった。

 

 そうしてなんとか調子の戻った俺も朝食を再開していたのだが、そこでふとした疑問を口にする。
「そういえば、るーこ、お前学校は?」
 俺の記憶ではるーこは転校ということで、既に学校から籍を除いていたはずだ。
 ……もっとも、そもそもその転入してきたこと自体いったいどんな手段を用いたのか怪しいものだが。
 だが、るーこは俺の質問にこともなげに
「もちろん行くぞ」
 そうとだけ答えると、すぐに食事を再開する。
 つまりは再転入をしたということなのか?
 なんにせよ、また一緒に学校に行けるのは嬉しい。
「それじゃああんまりゆっくりしてるとまずいかもな」
 時計を見ると、今出ればまだたっぷりと余裕のある時間だが、既に制服に着替えてしまっている俺と違い、るーこはまだ私服のままだ。
 多分学校へ行く準備もまだしていないのではないだろうか。
 となれば、そういった用意のための時間を踏まえると、そろそろ急いだほうがいい頃合かもしれない。
 だが、るーこは急ぐ様子もなく、黙々と食事を続けている。
 いいのかなぁ?
「る」
「あ、おい」
 もう食べ終えたのか、かちゃんと箸を置いて食器をキッチンに運ぶと、るーこはそのままとたとたとリビングを出て行ってしまう。
「相変わらずマイペースなやつ」
 でもまあ、そんなるーこに振り回されるのも嫌ではない、そんなことを考えている自分に気付く。
 ……あー、ダメだ、すっかり色ボケしてるな俺。
 行き場のない照れくささを誤魔化すように残っている朝食をかきこんでいく。
 もちろん、せっかくるーこが作ってくれた食事だ、どんなに急いでいようときっちりと味をかみ締めることは忘れない。
 うん、すごくおいしかった。
 さて、歯を磨いてくるか。
 食器を流しに浸けて洗面所へと向かうと、そこでは早くも制服に着替え終えたるーこが鏡に向かって髪を梳いていた。
「る? うーもここを使うのか? ならば少しだけ待て。もう終わる」
 その光景は新鮮で、ひどく俺の心を高鳴らせる。
 これまで、鏡に向かって身だしなみを整えているるーこなんて見たことなかったし、超然とした彼女がそういうことをしている姿を想像したことすらなかったのだ。
 無意識のうちにるーこという存在を日常的なものから切り離してしまっていたのかもしれない。
 だからこそ、この不意打ちは効いた。
 こんな何気ない仕草に見とれてしまうなんて……俺ほんとにるーこにやられてるんだなぁ。
 本日早くも二度目のるーこシンドロームの自覚。
「うー、空いたぞ」
「あ、ああ」
 るーこの譲ってくれた鏡の前に立ち、しゃこしゃこと歯を磨く。
「ん?」
 俺の後ろに立ったままのるーこと鏡越しに目が合う。
 まだ何か用事があったのだろうか。
「ほうかしたのか?」
 振り向いてたずねてみる。
 おかしな日本語になってしまっているが、歯ブラシをくわえたままなのでそこのところは許して欲しい。
「うーの姿を目に焼き付けている」
「んぐっ」
 危なく歯ブラシを射出しそうになる。
 いきなりなにを言い出すんだ。
「今まで離れていた分、うーのことを見ていたい。……ダメか?」
「ひや、はめじゃないへど」
 言いかけて、くわえたままだった歯ブラシを取り出す。
「いや、ダメじゃないけど、これからはいつだって好きなときに見れるだろ? 今のうちにそんなんじゃすぐ見飽きちゃうぞ」
「安心しろ、るーがうーを見飽きることなどありえない」
 俺の言葉を遮り、事も無げに、それはもういつもどおりの無表情でるーこは言う。
 そんなストレートに言われてしまうと俺のほうが照れてしまうじゃないか。
「あ、そ、そうか」
「そうだぞ」
「わ、わかったよ。好きなだけ見てくれていいよ」
 これから自分が言おうとしていることがどれだけ恥ずかしいのか自覚はしている。
 その恥ずかしさを誤魔化すように、ついぷいっとるーこから視線を外して再び鏡の方に向き直る。
「その代わり、俺もずーっとるーこを見続けてやるからな。覚悟しとけよ」
 言ってやった。
 誰かに聞かれたら絶対バカップルとか恋愛ボケとか言われるような、きっと極上に恥ずかしいセリフ。
 先ほどから俺ばかりが一人照れてしまっているのが悔しくて、少しはるーこのやつも照れさせてやろうと口にしたセリフは、俺本人にも十分すぎるくらいの効果を発揮する。
 なのだが。
「望むところだ、うー」
 肝心のるーこには、両手を上げた例の『るー』のポーズで、平気な顔で切り返されてしまう。
 ああもう、完敗だよ。
 ふと鏡越しに見たるーこの顔に浮かぶ嬉しそうな微笑みを前に、いつの間にか自分も笑っていたことに気が付いた。

 


「まだだいぶ時間があるなぁ」
 いつもこのみの家に行く時間までまだ10分以上ある。
 それじゃあもう少しゆっくりしてから……いや、待てよ。
 余った時間の使い方を考えているとき、ふとあることを思いついた。
「なあるーこ」
「る?」
 このみにはちょっと悪いけど……。
「少し早いけど、もう出ようか」
「わかったぞ」
 今日くらいはきっとみんなも許してくれるよな。
 るーこもすぐに俺たちの日常に溶け込み、タマ姉や雄二やこのみみたいに、当たり前に一緒に登校するようになるだろう。
 だから、そうなる前に一度くらい、ほんの少しだけ『特別』に浸っても罰は当たらないよな?
「る?」
「行こう」
 突然手を取ったからだろうか、きょとんとした顔のるーこの手を引いて、俺は急かすように通い慣れた道を歩き出す。
 ……手を握るのではなく、こわごわと手首を掴むので精一杯なのが情けないところだが、俺にしたら大躍進だよな、きっと。
「……はじめてだな」
「なにがだ、うー」
「るーこと一緒に登校するの」
 一緒に帰ることは何度かあったけど。
 口には出さず、心の中でだけ呟く。
「当然だ、るーは昨日日本に来たばかりなのだぞ」
「……そうだな。きっとるーこはこれからいろんな『はじめて』を体験できるぞ」
 結局、俺の覚えているるーこと過ごした二ヶ月の記憶がどういったものなのかはわからずじまいだ。
 本当にあったことなのかもしれないし、るーこの言うとおり幼い頃の記憶が混濁していただけのものなのかもしれない。
 でも、そんなことはどうでもよかった。
 大切なのは今こうしてるーこが俺の隣にいてくれることなのだから。
「そうだ。るーこ、覚悟しとけ。きっとタマ姉に今朝待ち合わせすっぽかしたことで何か言われるからな」
「タマネエ?」
「るーこ風に言うと……『うータマ』だっけ?」
 玄関にこのみへの伝言で『先に行く』と書いた紙を貼っておいたから、一応そのことは伝えられるだろう。
 でもタマ姉のことだ、きっと顔を合わせると問い詰めてくるのではないだろうか。
 そのとき、俺の隣にいるるーこを見てどんな反応をするのか。
 なんだかイタズラでも企んでいるみたな胸の高鳴りを覚える。
「なんにせよ、まずは紹介だよな」
 俺だけじゃない、みんなにも二度目の未知との遭遇を果たしてもらおう。
 もっともみんなが一度目のことをおぼえているのか忘れているのか、それさえも今の俺には曖昧だけど。
 でも、みんなに最初に言う一言はもう決めていた。
 『俺の許婚のルーシー・マリア・ミソラです』
 きっと驚くに違いない。
 みんながこれから出会うのは、るーこ・きれいなそらでなく、ルーシー・マリア・ミソラ。
 るーこは、俺にだけ特別に『るーこ』って呼ばせてくれるって言った。
 だから他の誰にもるーこって呼ばせてやらない。
 なにせ本人直々にくれた特別の証なのだから。
 ……知らなかったなぁ、俺ってこんなに独占欲が強かったのか。
「タマ姉たちは……うん、まだ来てないな」
 いつもの待ち合わせ場所に差し掛かるが、二人の姿はまだそこにはない。
 ごめん、と数分後ここに来るであろう幼馴染に謝罪の言葉を残し、るーこと一緒に歩き出す。
 通いなれたはずのこの通学路さえも、二人並んで歩けばこれまでとは何かが違った新しいものに感じる。
 そうだ、帰りに公園によってニャーにも会わせてやろう。
 それから、商店街にも行って、二人であっちこっち行きまくって、新しくランキングを作ってやろう。
 るーこがいるだけで全てが新しく、全てが新鮮な世界。
「楽しそうだな、うー。さっきからずっと笑ってる」
「そ、そうか?」
「そうだぞ」
 どうやら知らず知らずに感情が顔に出てしまっていたらしい。
 でもまあいい、隠すつもりなんかぜんぜんないんだから。
 思い切り笑ってやる。
 それに……。
「るーこだって笑ってる」
「る?」
 俺に言われて、ぺたぺたと自分の顔に触れるるーこ。
 こんなにも何気ない日常。
 だけど今まで知らなかった世界。
 俺と彼女の未知との遭遇は、きっとこれからも続いていく。

 

end