わたしが水着に着替えたら

 何でこうなったんだろう。
 思考が働いていないまま駅へ行き、電車に乗り、こうして今4人でボックス席に座ってる今となっても、未だ思考は錆付いたままだった。
 いや、このままではいけない。
 このまま流されるだけでは郁乃の悪戯にしてやられたままではないか。
 別段このみが混じることに異論はないし、もともとこのみとは長い付き合いだから、一緒にいることに何の抵抗もない。
 そりゃ、ちょっと恥ずかしいとは思うが、だからといって追い返したり邪魔者扱いするつもりはない。
 問題は、郁乃にしてやられたままであるということなのだ。
 ここはきちっと俺自身の気持ちの切り替えをする必要がある。
 斜め前にいるこのみは、既に遠足気分も絶頂で、荷物の大半を占めていたんじゃないかと思われるお菓子の攻略に乗り出していた。
 愛佳といい勝負が出来そうだなんて思ってチラリと隣を見ると、愛佳もチョコレート一箱を空にする寸前だった。
 やっぱりいい勝負だ。
「なぁ、このみ」
「はぁに?」
 呼んでみると、このみはポッキーをくわえたままこっちを振り向くむ。
 それをパッとこのみの口から奪い取り目の前にいる郁乃の口に放り込んでやる。
「むぐっ!? ちょっと何するのよ!」
「このみはいつから今日来ることになってたんだ?」
 郁乃からの文句を無視して、話を進める。
 へへん、ちょっといい気味だ。
「んーと」
 口元に人差し指を当てて考え込む仕草をすると、しばらく黙り込んでしまう。
「えっとね、一昨日の前の日なんだけど……しおととい? なんて言うんだろ」
「いや、言い方はいいから」
 そんなこと考え込んでたのかよ。
「要するに3日前か」
「うん、そうだよ。夕方にいくのんから電話があって、海にいこうって」
 ……3日前というと、まさに郁乃が海に行きたいと言い出した日じゃないか。
 あんにゃろう、こんな悪戯を即日決行してやがったのか。
「貴明からこのみも海に行きたがってるって聞いたから、ちょうどいいと思ったのよ。急な話でちょっと悪いかなとも思ったんだけどね」
「ううん、嬉しかったよ。ありがとーいくのん」
 ガシっと隣り合う郁乃にこのみが抱きつく。
 女の子同士ってちょっと過剰なスキンシップをするとはよく聞くがこのみも立派に女の子やってるんだな。
 これが男同士、例えば俺と雄二だったら絶対あんなことはしない。
 ……うっ、俺に抱きついてくる雄二を想像したらちょっと気持ち悪くなってきた。
「いいのよ。あたしたち友達じゃない」
 言葉はこのみに向かってるのに、その不敵な視線はさっきから俺をロックオンしている。
「春夏さんはちゃんと知ってるのか?」
「うん、タカくんが一緒なら安心だって」
 あの人なら言いそうだ。
 でも俺だってよく考えたらこのみより一つ年上のだけなんだけど。
「あんまりはしゃぎすぎて人に迷惑かけないようにするんだぞ」
「もー、わかってるよー。このみそんなに子供じゃないよ」
「ほんとに兄妹みたいなのね」
 郁乃が俺とこのみを見比べ、感心したような声を出す。
「そりゃな。もうずっとお隣さんやってるんだし」
 家族ぐるみの付き合いで何をやるにも一緒だったこのみは俺にとって血が繋がっていないだけで妹にかわりはない。
「だからこの前妹代わりはもう間に合ってるって言ったろ」
「でも、あたしは将来戸籍上の妹になるかもしれないわよ?」
 さらりと。
 それはもう本当にごく自然に、郁乃はとんでもないことを言ってのけた。
「なっ、なっ、なにを」
 待て、慌てるな。
 あんなこと言われたくらいであたふたしてしまえば郁乃の思う壺じゃないか。
 ここは一つ大人の余裕ってヤツを見せてやるんだ。
「こほん」
 咳払いを一つし、自分を落ち着ける。
「まああれだよ、将来がどうなるかなんてわからないし。なぁ愛佳」
 同じように顔を真っ赤にしているだろう愛佳を味方につけようと隣を見てみると
「んぐんぐ。……ふぁい?」
 ちょうどチョコレートの二箱目を空にしていた。
「えっと、何の話でした?」
 ずっと食ってたんかい。
 そういやさっきから一言も会話に参加していないと思ったら……。
 恐るべきは愛佳の食に対する集中力。
「なぁに? 将来どうなるかわからないって、そんないい加減な気持ちでお姉ちゃんと付き合ってたの? お姉ちゃん、今の聞いた? 貴明と付き合うのなんてやめておいたほうがいいんじゃない?」
「おいっ、なんでそうなるんだよっ」
「えっ?えっ? 何の話?」
「いや、愛佳はぜんぜん気にしなくていいんだ」
 くそぅ、大人の余裕を見せるはずがなぜ逆に追い詰められてるんだ。
「言っとくが俺は断じていい加減な気持ちなんかで愛佳と付き合ってるわけじゃないぞ! 俺だってこれからも愛佳とずっと一緒にいられたらいいなぁと思ってるし、愛佳さえ良ければいつかは……その……」
 そこまでまくしたてたところで、ふと自分に突き刺さる3つの視線に気付く。
 ……やってしまった。
「タカくん、愛佳さんと結婚しちゃうの……?」
「ちっ、ちがっ」
 ああ、もう手遅れだ。
 このみにまでばっちり恥ずかしいセリフを聞かれてしまった。
「そ、そうだよね。二人は恋人同士なんだもんね」
「待てこのみ。別に今のはそういうことを言ったんじゃなくって」
 いや、確かにそうなったらいいなという本音をぶちまけかけてしまったんだが。
 だからと言ってここで認めてしまうわけにはいかない。
「今のはほら、あれだよ。このみだってタマ姉や雄二とずっと一緒にいたいなぁとか思うだろ?」
「ううん。だいじょうぶ、このみ応援するよ。おじさんたちがもし反対しても一緒に説得してあげるから」
 ダメだ、俺がなんて言おうと聞いちゃいない。
 完全に思考が突っ走っちゃってる。
「ふふん」
 目の前に座ってる郁乃は、満足気ににやっと笑っている。
 ……またやられた。
 そしてこのみ以外にもう一人、熱暴走してる人間がいた。
「や、やだぁ。結婚だなんてまだ早いよぉ。そ、そのね、たかあきくん、あたしたちまだ進学や就職もあるし、そういうのは二人できちんと相談してから決めたほうがいいと思うの」
「まぁ確かに人生設計は大切だな……って、今はそういう話じゃなくって」
「あ、そうだよね、まだちょっと早いよね。やだなぁあたしったら。まずは高校を卒業してからだよね、うん」
 愛佳は何を思ったのか、小さくガッツポーズを取る。
 見るからにファイト満タンって感じだ。
 違うっ、そうじゃないんだ。
 俺が言いたかったのはそういうことじゃなくて。
「参っちゃうでしょ? この二人いっつもこうなのよ」
「そ、そうなんだ」
 やれやれと言った顔の郁乃と、なぜか顔を赤くしているこのみ。
「四六時中目の前でイチャイチャされて困っちゃうわ」
「確かに目の毒かも……」
 別にいちゃいちゃなんてしてないってのに目の毒のわけがないだろう。
 だが確信犯の郁乃と勘違い娘のこのみの妹コンビには何を言っても無駄だろう。
 なんてこった、こんな凶悪なタッグが誕生してしまうなんて。
 電車に揺られながら、タマ姉に続く新たな天敵の誕生に頭を悩ませた。

 

 海に着くと、まずは俺が手早く着替えを済ます。
 こういうときさほど時間がかからないのは男の利点だ。
「それじゃあタカくん、このみたちも着替えてくるねー」
 着替えて戻ってきたところ、今度は女の子三人が連れ立って更衣室へと向かっていった。
 ……このみが来ると、女二人と男一人でギリギリ保たれていたバランスが崩れて、男女比3:1になっちゃうんだったな。
 ちょっとした寂しさを感じながら、一人ぽつんと砂浜の上で座って待つ。
 このみも来るとわかってたなら雄二やタマ姉も一緒に誘ってしまえたのに。
 でもあの二人がいればいるでますます愛佳とのことをちゃかされそうだし。
 それに雄二がいたとしてもどうせナンパだとかですぐいなくなって、結局タマ姉だけが加わる形になり、女率が高くなるだけという未来予想図がすんなりと浮かんでくる。
 ……やっぱ呼ばなくてよかった。
「そういやあんまり混んでないんだな」
 予想とは違いあたりの人口密度は低い。
 それなりに人はいるが、これくらいならば人の多さに煩わされることもなくのんびりと遊べそうだ。
「砂浜か……」
 見渡す限り砂、砂、砂。
 海と砂浜というシチュエーションにあの二人組が合わさり、俺の警戒心は自然と高まる。
 頭の中では『絶対に寝てはいけない』と警鐘が鳴らされている。
 十数年来の付き合いで遠慮のないこのみと、生来の図太い性格で遠慮のない郁乃。
 この二人が揃っている場で隙を見せようものなら、絶対に埋められる。
 ただ埋められるだけじゃない、きっと自分では出られないくらいに砂を積まれる。
 しかもその上に乗っかって記念写真とか撮りかねない。ああ、撮りかねないとも。
「そうなんでも思い通りになると思うなよ妹コンビめ」
「たかあきくん、お待たせー」
「あんたは何を一人でぶつぶつ言ってるのよ」
「準備完了であります隊長」
「ん、おかえり」
 何の気なしに声のするほうに振り返ったのがいけなかった。
 海、とくれば当然水着なわけで。
 そんな当たり前のことをすっかり忘れていた俺には、それはとんでもない不意打ちだったわけで。
 だから、その、つい愛佳に目が釘付けになってしまったのもしょうがないことだと思う。
 確かセパレートって言うんだっけ、ああいうの。
 愛佳らしい水着で、色も愛佳のイメージと合った水色のストライプ。
 この水着ってこの間買い物に行ったときに買ったんだよな。
 結局売り場に行くのが恥ずかしくてベンチで待ってたが、俺が待ってる間にこんなかわいい水着を選んでいたなんて。
 愛佳も俺の視線に気付いているのか、わずかに顔を伏せ、もじもじとしている。
 う……、どうしよう、こういうときはやっぱ褒めたりした方がいいんだろか。
 でもなんか照れくさいし。
 雄二がいればきっと聞いてるほうが恥ずかしくなるような褒め言葉を臆面もなく連発してくれただろうから、それに便乗してしまえたのに。
 ええい、俺だって愛佳の彼氏なんだ。
 何を恥ずかしがることがある。
「えっと、水着すごくかわいいよ。あっ、いや、今のは水着がかわいいって意味じゃなくって、水着を着てる愛佳がかわいいってことで、だからその、似合ってるよ、うん」
 しどろもどろという言葉が似つかわしい。
 褒め言葉の一つや二つ、もっと流暢に言ってあげられればいいのに。
 自己嫌悪に陥りそうになる。
「あ、ありがとうたかあきくん」
 だが、愛佳はそんな俺の拙い言葉にも嫌な顔もせず、嬉しそうな顔をしてくれた。
 その顔を見て今度は俺が嬉しくなる。
「なんかちょっと照れくさいな」
「うん」
「よし、せっかく海に来たんだ。遊ぼうぜ」
 お互い照れているのはここまで、と気持ちを切り替え、早速海を満喫せんと愛佳の手を取って走り出す。
「ちょっと待つ」
 走り出す前に、ぐいっと郁乃に肩を引っ張られた。
「なんだよ。今せっかく気分が盛り上がってたところだったのに」
「あたしたちにも何か言うことあるんじゃないの?」
「言うこと……?」
 しばし間。
「ああ」
 ぽんと手を打つと、荷物から財布を取り出す。
「ほい、ラーメン食べてきていいぞ」
 郁乃も食いしん坊の愛佳の妹だ、きっと海の名物を食べたくてうずうずしていたんだろう。
 ここは年上らしく奢ってやろうと500円玉を渡してやる。
 俺の寛大な心遣いに感激したのか、郁乃は俺の腕をそっと手に取ると。
「いってええええええっ!?」
 思い切り噛み付いてきた。
「なっ、なにすんだよ! げっ、あとがついてるっ」
「うわぁ、すごいくっきり。いくのんあごの力すごい……」
「あたしたちだって水着なんだけど」
 人の腕に歯型の照合が出来そうなくらいくっきりと傷を残しておいて、郁乃は何事もなかったように話を進める。
「そりゃ海なんだから、水着なのは当たり前だろ」
 一体何が言いたいのか。
「タカくんー」
 このみもまた、咎めるような口調で俺の名前を呼ぶ。
 妹コンビは俺に何を求めているんだ。
 どうすればいいのか悩んでいると、愛佳がひそひそと耳元で囁く。
「たかあきくん、このみちゃんたちの水着だってかわいいよ」
「ん? そうだね」
 まあかわいいっちゃかわいいけど、それがどうしたというのか。
 ……あっ、もしかしてそういうこと?
 窺うように愛佳の目を見ると、こくりと頷いて答えてくれる。
 いつの間にか俺たちはアイコンタクトまでできるハイレベルなカップルになっていたようだ。
 ともあれ、今俺に求められていることはわかった。
「二人とも似合ってるんじゃない?」
 とりあえず褒めといた。
「お姉ちゃんのときとは態度が全然違う」
「タカくん、すっごく投げやり」
 だが、二人は不満そうに唇を尖らせる。
 愛佳はそんな俺たちを見て。
「もお、ダメだなぁたかあきくんは。女心がわかってないんだから」
 そのお姉さん笑いやめて。

 

 あれから10分、せっかくはるばる海に来たというのに、まだ一歩も水に浸かることが出来ずにいた。
 というのも、未だに俺はすっかり機嫌を損ねてしまったこのみと郁乃のご機嫌取りをしてたからだ。
「ほんっと、お姉ちゃんしか見えてないのね」
「このみもあの扱いはショックだったよ」
「だから悪かったってば」
 しょうがないじゃないか。
 勇気を振り絞って愛佳と恋人らしいやり取りをできたことに満足していた俺には、とても二人のことまで頭が回らなかったんだ。
 それにほら、いくら相手がこのみや郁乃だからって、やっぱり女の子の水着を褒めるのは少し照れくさいことに変わりはないんだよ。
 口に出すには恥ずかしい言い訳をひたすら心の中に積み重ねる。
「このみ、せっかく新しい水着買ったのに」
「あたしなんて学校の以外の水着を着たの初めてだった」
 それでも言葉のナイフは鞘に納まる様子を見せない。
「ほら、二人ともかわいいかわいい。だからそろそろ……」
 初めはこの一言さえも恥ずかしかったのだが、さすがにあれから延々と褒め続けていれば慣れてもくるようで、今では俺もこれくらいさらりと言えるようになってしまった。
「心が篭ってないよ」
 それでもまだまだ満足いかないのか、じとーっとした目つきでこのみが睨む。
 しかしそんなこと言われても、元から大したボキャブラリーはないのだ。
 浮かぶ言葉もとうに尽きている。
 俺も雄二と幼馴染をやって長いが、これまでの人生の中で今日このときほどあいつの助力を欲したことはないだろう。
 不慣れな俺がこれだけ頑張ったんだ、ここら辺で許してもらいたい。
「お姉ちゃんのときみたいにもっとしどろもどろに慌てふためいてほしいわね」
 勘弁してください。
 願いも虚しく、延長戦に突入するかと思われたその時。
「二人とも、たかあきくんも反省してるし、そろそろ許してあげよ?」
 ついに愛佳から援護が。
 やはり持つべきは心優しい恋人だ。
「はぁーい」
「そうね。ま、この辺でやめてあげるわ」
 愛佳に言われるなり、二人ともさっさと荷物の置いてあるシートの方へ歩いて行ってしまう。
「……なんかえらいあっさり引っ込んだな」
 ちょっと肩透かしな反応にびっくりする俺の視界端に映ったもの。
 それは振り向きざまにぺろっと小さく舌を出している郁乃だった。
 俺は悟った。
 あいつら、面白がってわざとあんな責めるようなことばっか言ってやがったのか。
 ……ふふふ、上等じゃないか。
 俺がやられてばかりだと思ったら大間違いだということを教えてやらなくてはなるまい。
「このみ」
「なぁにタカくん?」
 まずは狙いを長年の幼馴染に定める。
 既にシートの上でくつろいでいる三人のところまで行くと、優しい声でこのみに声をかけて近づく。
「さっきのは本当に悪かった。お詫びと言ってはなんだが」
「わっ? わっ!?」
 言いながら、ひょいとこのみを担ぎ上げ海の方へ歩いていく。
「一番最初に雄大な海を味あわせてやろう」
「ちょ、ちょっとタカくん、待って待って」
 聞く耳持たない。
「わぷっ」
 遠慮なく、海の中に放り投げてやる。
 少し深めのところまで運んでやったのはせめてもの情けだ。
「ぷはっ」
 水面から顔を出したこのみが、恨めしそうに見上げてくる。
「ひどいよタカくんー」
「はっはっは、海の醍醐味醍醐味」
 軽く流し、次のターゲットをロックオン。
「な、なに? まさかあたしまで投げ捨てる気?」
 慌てふためく郁乃に、一歩ずつゆっくりと歩み寄っていく。
「や、やー。こっち来ないでよ!」
 郁乃の目の前まで行くと、このみと同じように抱き上げてやる。
「まあそう遠慮するな。俺と郁乃の仲だろ」
「どんな仲よ! あっいやっおろしてー! おっ、お姉ちゃん助けてっ」
 すぐ隣で事の成り行きをぽかんと見守っていた愛佳に助けを求める。
 さすがの愛佳も、妹の声にハッと正気に返る。
「いっ、郁乃があたしに助けてって……。おねえちゃん嬉しいよ郁乃」
「ちょっとそんなことで感動してないで助けなさいよっ! きゃー」
 残念ながらタイムオーバーだ。
 郁乃を抱き上げたまま海へと向かって歩いていく。
 傍から見ると俗に言うお姫様抱っことなってしまっていて少々恥ずかしいのだが、復讐に駆り立てられている今の俺はそんな程度では止まらない。
「安心しろ、郁乃にあんな乱暴なことはしないさ」
「ひっどーいタカくん。このみには乱暴するのー?」
 あのまま海でじゃぶじゃぶと泳いでいたこのみから文句が飛んでくるが、これも気にしない。
 まあ、さすがにちょっと前まで入院生活を余儀なくされていた郁乃に強制海中ダイブをさせるわけにはいかないしな。
 なので。
「息止めてないと水飲んじゃうぞ」
 ちょうど胸くらいの深さまで歩いてきたところで、郁乃に一言注意する。
 郁乃は既に背中が海に浸かっている状態だ。
「ちょ、ちょっと、ここかなり深いじゃない! 止まってよ!」
「まあまあ」
 離してしまわないように気をつけながら、郁乃を抱えたまましゃがんで海の中に潜ってやる。
 郁乃はぎゅーっと目を瞑り、必死になってしがみついている。
 あまり長いこと潜らせるとまずいかな。
 10秒ほど経ったところで腰を伸ばす。
「ぷはぁ」
 海面に出ると、郁乃はぜぇぜぇと息を切らし、ちょっと涙目になっていた。
 あ、ちょっとすっきり。
「なっ、なんてことすんのよ!」
「かわいい妹に身をもって海を体験してもらったんだ。未来のお兄ちゃんは優しいだろ?」
「ぐっ」
 電車の中でからかわれたネタを逆手にとって平然と切り返してやる。
 ここに愛佳がいたらとてもじゃないが恥ずかしくて言えないセリフだ。
「大丈夫だって。ちゃんとしっかり抱いててやったろ?」
「うっ」
 取り乱したのがよほど恥ずかしかったのか、郁乃は見る見る赤面していく。
 これは久々の、いや、もしかしたら初めての完全勝利じゃないだろうか。
 久しく味わったことのなかった勝利に酔いしれていると、郁乃が一層ぎゅっと俺に抱きついてくる。
「お、おい、そんなに怖かったのか?」
 やばい、さすがにやりすぎたかも。
 ちょっと反省しかけた次の瞬間。
「いってええええええっ」
「ふんっ」
 郁乃のヤツ、首筋に噛み付いてきやがった。
 こいつがそんな大人しいタマではないのをすっかり失念していた。
「おまえは吸血鬼かよ!」
 この抱いている格好を見事に利用した攻撃だった。
 転んでもタダでは起きないとは、きっとこういう人間を言うんだろう。
「いってぇ」
 シートまで郁乃を運んで下ろしてやり、首元を擦る。
 おのれ郁乃め、すっかり噛み付く攻撃が板についてるな。
「郁乃、大丈夫だった?」
「まっ、まあね」
 心配そうに訊ねる愛佳にぶっきらぼうに返事をする郁乃の顔は、まだ赤いままだった。
「もお、びっくりしちゃたじゃないたかあきくん」
「ごめんごめん」
 軽い悪戯のつもりだったが、やはり姉からしたら心配でしょうがなかったのだろう。
 このみも一緒だったせいか、つい悪ノリが過ぎてしまったかもしれない。
「水に入る前にはちゃんと準備運動しないとダメだよ?」
「「心配する点が違う!」」
 今この瞬間、郁乃と俺の心は完璧なまでにシンクロしていた。

 

end