腕いっぱいのわがままを


 ここ最近、シルファの顔には笑顔が張り付いているのが常だった。
 いつも浮かべている微笑が春風のような穏やかなものならば、今はさながら眩いばかりの夏の太陽。
 大人しいシルファがここまで過剰に喜びを表現するのも珍しいことだった。
 それというのも、パパと慕ってやまない貴明の傍にいつもいられるからと、理由はいたって単純明快。
 周囲から見ればシルファが貴明にべったりと引っ付いているだけなのだが、貴明と一緒にいたい一心で行動しているシルファにはそこまで気が回らず、姉のミルファをやきもきさせているのさえ今のシルファには気が付かない。
 ただ純粋に一緒にいるという事実だけが嬉しくて、喜ばしい。
 心のキャンバスはその感情一色で塗りたくられている。
「シルファ、俺は部屋に行くけど」
「あの、私も一緒にパパのお部屋に行ってもいいですか……?」
 周囲の目は意識に入らないシルファも、貴明だけは例外で、その心の内が気になってしょうがないようだ。
 どこへ行くにも付いて回るが、必ずその前に、こうして一言断りを入れる。
 断られたらどうしようという不安がいつもの引っ込み思案に拍車をかけて、どうしてもおずおずとした言い方になってしまう。
 もっとも、今のところ貴明がこの問いにノーと答えた例はないのだが。
「ああ、いいよ。おいで」
 この通り、今もそう柔らかく笑って、頭を優しく撫でてくれている。
 元来気の小さいシルファの心に募る不安を、貴明はいつもこうして取り除いてくれる。
 嬉しさのあまり、シルファの手が階段を上る途中で遠慮がちに貴明の手に触れる。
 そのままそっと弱く力を入れて握ってみた。
 最初は驚いたような顔をした貴明も、でもすぐにぎゅっと握り返してくれる。
 喜びと同時に、シルファの心に相反する思いが沸き上がる。
 パパは優しすぎる。
 おかげで、日に日にシルファの中の甘えたい心が大きくなっていってしまう。
 メイドロボとしては誉められたことではないとわかっているけど、今はその干したての布団のような心地よい優しさに身を委ねてしまいたくなる。
 離すことも出来ず、手を繋いだまま階段を上り貴明の部屋のドアをくぐるのだった。
 初めて入ったときはちょっとだけ恥ずかしくて緊張しきりだった貴明の部屋も今では慣れたもので、貴明の隣にいるのと同じような居心地の良ささえ感じられる場所だった。
 初めてといえば、男の人の部屋に入ったらまずベッドの下を覗いてみるとその人の趣味がわかりますよというイルファの言に従おうとしたとき、貴明が酷く慌てて取り乱していたこと思い出す。
 パパのベッドの下って何かあるのかな?
 床とベッドの間の小さな隙間をじっと見つめながら疑問符を浮かべる。
 いまだそこはシルファにとっては未知の領域だった。
「ごめんな、今からちょっとやらないといけない課題があるんだ」
 その声でベッドの隙間から貴明に視線を戻す。
「すぐ終わらせちゃうからちょっと待ってて」
「そんな……。私のことは気にしなくても大丈夫です。パパ、お勉強頑張ってくださいね」
 椅子を引いて机に向かう貴明の背を見つめたまま、シルファはぽふっとのベッドの淵に浅く腰掛ける。
 部屋の中は静かだった。
 時計の針の音と、カリカリと時折響くシャープペンを走らせる音。
 手持ち無沙汰のシルファは、何かをする代わりに、ぼんやりと貴明の背中を眺めながら考える。
 こんなとき、ミルファお姉ちゃんだったら遠慮なくパパに甘えていったんだろうなぁ。
 想像の中の姉は、後ろから貴明に忍び寄ると、がばりと覆い被さるように勢いよく抱きついた。
 ……羨ましい。
 姉二人と違い積極性に欠くと自覚しているシルファにはとても出来る真似ではない。
 もっと構って欲しい。
 心の奥底で燻る欲求も、貴明に邪魔と思われたらと考えてしまうと押し込める以外の選択肢が浮かばなくなってしまう。
 まだかな。
 まだかな。
 そわそわと貴明がこちらを振り向くのを一心に待つ。
「……あ」
 肩越しにちらっと振り向いた貴明と目が合ってしまう。
 確かに振り返ってほしいと思ってたけど、そうじゃなくって、勉強を終えてこちらを向いてくれるのを待っていたのだ。
 こんな落ち着きのない様子は見られたくなかった。
 恥ずかしさのあまり、俯いてしまう。
 きぃっと椅子のまわる音。
 目の前に影が射す。
 顔を上げると、そこにはいつものように穏やかな笑みを浮かべる貴明がいて、シルファの頭に優しく手を置くと、その隣に腰を下ろした。
「お勉強はいいんですか?」
「うん、ちょっと休憩」
 口ではそう言うが、その表情は退屈そうなシルファを放っておけなかったと物語っている。
 俯いて小さくなるシルファの胸中では、申し訳なさと気恥ずかしさと嬉しさがうねりをあげて混じりあう。
 貴明はいつだってそうだった。
 自分から言い出せないシルファに先回りして、願ったことを叶えてくれる。
 まるで魔法使いみたい。
 メイドロボらしからぬ非科学的な空想に耽る。
 たとえその身は科学の申し子でも、心は夢見る乙女のそれなのだった。

 

 休憩を終え、再び机に向かって頑張る貴明の姿をシルファの瞳が映し出す。
 今はもう、さっきのようにそわそわとすることもない。
 わざわざ時間を割いてくれた貴明にここぞとばかりに甘えられたシルファの心は満たされていた。
 甘えるといってもミルファのように抱きついたりはとてもできないから、ただ隣に座っていただけだけど、貴明が自分のために勉強を中断してくれたというだけで十分すぎる贅沢な時間。
 いつもシルファには思っていたことがある。
 ミルファばかり貴明を独り占めして、ちょっとだけずるいなと。
 でも、今は自分がパパを独り占め。
 これまで溜まりに溜まったフラストレーションをすべて吐き出してしまったような気分だった。
 本当は貴明がいつ怪我をしてもいいようにと傍で見張っていたシルファだが、嬉しい誤算ともいえる思わぬ副次効果に喜びを隠せない。
 それでは一体シルファは何を思ってそんな監視を決行しているのかというと、話はつい先日、貴明が小さな怪我をしたあの日に遡る。
 怪我は舐めれば治る。
 シルファの知るどの処置とも違った応急手当を教えてくれたのは他でもない貴明で、早速実践したシルファを待っていたのは予想外のご褒美だった。
 そのときの記憶が鮮明に蘇る。
 パパがあんなにぎゅっと抱き締めてくれたのははじめて。
 しかも、そのまま頭をなでなでしてもらえた。
 また怪我を舐めて治したら、もっといっぱいぎゅってして、撫でてくれるかな。
 淡い期待を胸に抱き、貴明がいつ怪我しても大丈夫なように、そして他の誰にも先を越されないように、それがここのところシルファが貴明に付きっ切りになっていた理由だった。
 そうすれば、貴明が抱き締めてくれて、頭を撫でてくれるんだと。
 もっと誉めてもらいたい。
 なかなか自分から進んで甘えることのできない、シルファなりの精一杯のアプローチ。
 でもパパ……ちっとも怪我しないな……。
 ハッとしてすぐに首を振る。
 いけない、なんてひどいことを考えるんだろう。
 ごめんなさいパパ。
 パパはいつもこんなにも優しくしてくれるのに、シルファはパパが怪我することを願ってしまいました。
 深く懺悔する。
 それでもちょっとだけ残念に思う気持ちが拭いきれない。
 それほどに、シルファにとって貴明の抱擁は魅力的なものだった。
 貴明の一番を公言するミルファでさえ、貴明に抱きつくことはあっても抱き締められることは滅多にない。
 ……ごめんなさいパパ、やっぱりシルファは悪い子です。
 そっと胸の前で手を組んで天井を仰ぎながら、貴明に抱っこされる自分を思い描いてしまう。
 なんだか、自分がとても罪深く思えてくる。
「パパ、あの、肩とトントンってしてもいいですか?」
「え、なに、肩叩き?」
「はい」
「どうしたの突然?」
「いえ……その、パパ、さっきからずっと机に向かってるので、疲れてないかなって」
 例えどんな理由があろうと、「大事なパパの怪我」を期待してしまうなんて、シルファにしてみればれっきとした大罪だ。
 罪の意識に苛まれ、罪滅ぼしにと貴明のために何かせずにはいられないシルファのせめてもの申し出。
「うーん、確かにちょっと首の周りが凝ったかも。それじゃあシルファ、悪いけどお願いできるかな」
「はいっ、頑張ります」
 許可が下りるなり、すぐさま貴明に駆け寄ってその肩に腕を伸ばす。
「んしょ。んしょ」
 一生懸命に上下しているシルファの腕が、トントントンと貴明の肩にリズムを刻む。
「あ〜」
 貴明の口から漏れる声にシルファの頬も緩む。
「気持ちいいですか?」
「うん、すっごく」
 ちょっとだけ、叩く手を止める。
 今ならミルファがいつもしているように、えいっと後ろから抱きついてしまえないだろうか。
 高性能を誇る人工頭脳をフル回転させる。
 パパならきっと、怒ったりしない。
 そう思う反面、優しいから表に出さないだけで、もしかしたらそういうことをされるのは嫌なのかもしれないとも考えてしまう。
 期待と不安、背反する感情は互いに互いを打ち消しあい、結局何の結論も残さない。
「シルファ?」
 手が止まったままなのを不思議に思ったのだろう。
 貴明が小さく振り返り、窺うようにしてシルファの顔を覗きこむ。
「あっ、ごめんなさい」
「いや、もういいよ。そろそろ続きをしないといけないし」
 慌てて再開させようとするが、貴明はそれを軽く手を振ってそれ制し、逆にシルファの頭に腕を伸ばす。
「ありがとな、気持ちよかったよ」
「あっ……」
 優しく髪を撫でられて、シルファの体からふわっと力が抜けていく。
「……はい」
 わずかに言葉を澱ませ、しかし結局シルファはこくりと頷く。
 パパはずるい。
 シルファの胸中では不満と至福が混じりあう
 こんな風に優しく撫でられると、本当はもっといっぱい肩を叩いてあげたくっても、素直に言うことをきいてしまう。
「じゃあもうちょっとで終わるから」
 最後に軽くポン、とシルファの頭を叩き、貴明は再び机の上のノートに向き直る。
 シルファも大人しく貴明から離れてベッドの上に戻る。
 貴明に触れられた頭にそっと指を伸ばし、自分でもチョンと優しく触れてみる。
「えへへ」
 なんだか間接的に貴明と手を触れ合わせているような気分。
 そういえば。
 今の今まで気にしなかったけど、よく考えれば今座っているベッドは毎晩貴明が眠っている場所だった。
 今度はベッドの方にそっと、恐る恐るといった様子で手を這わせる。
「……」
 少しだけ手に力を入れてみると、ベッドの弾力に包まれる。
 ごくりと小さく息を呑む。
 誘惑されている。
 まるでベッドが寝そべってごらんよと手招きをしているような……。
 ささっと素早く貴明の様子を窺う。
 こちらに気付く素振りはない。
 ……ちょっとだけ。
 ゆっくりとベッドに体を倒してみる。
 つつつと寝転がったまま移動し、今度は枕に顔を埋めてみる。
 とても幸せな気分だった。
 さっきのが手を触れ合わせているのだとしたら、今は貴明にぎゅっとしてもらっているような。
「いってぇっ!」
 が、そのささやかな幸せの時間を打ち破ったのは、ほかならぬ貴明の声だった。
 突然の声にびくりと身を竦め、次の瞬間には慌てて体を起こして寝転がっていた痕跡を消す。
 証拠隠滅を完遂し、何食わぬ顔で座りなおしたところで、シルファはハッとそれどころじゃなかったことに気付く。
「パパッ!? 大丈夫ですか!?」
 貴明はぶんぶんと自分の右手を大きく振っている。
 駆け寄ってその手を引ったくり見てみると、親指の先にうっすらと黒い点がついていた。
「はは……間違えてシャーペン逆さにノックしちゃった」
 それで指に芯が刺さってしまったということだ。
 血は出ていないけど、貴明の苦笑する顔もどこか痛々しい。
 貴明の怪我。
 シルファにとっては願ってもないチャンスのはずなのに、その胸中は締め付けられるような苦しさで占められる。
 私があんなことをお願いしちゃったから?
 そのせいで、パパはこんなにも痛そうな怪我をしちゃったの?
 考えれば考えるほど後悔が滲む。
「痛いですか?」
「んー、ちょっとだけ。まあそんな大げさなモンじゃないから平気だよ」
「……ごめんなさい、パパ」
「へ、なんで?」
 自分の不注意で怪我をしただけなのに、なぜかシルファから謝られるという不可解な展開に貴明は間の抜けた声を漏らす。
 しかしシルファはそれどころじゃない。
 自責の念に駆られながら、じっと貴明の指先を見つめている。
 すごく痛そう……。
 私が責任をもって治しますから!
 キッと決意の表情を浮かべ、おもむろにその指を口へと運ぶ。
「あむっ」
「ちょ、ちょっと!?」
 口に含むだけに留まらず、ちゅーちゅーと哺乳瓶のように親指を吸われ、貴明は目を見開いて白黒させる。
 舌が指に絡みつき、くすぐったさと温かさがずっと纏わり付く。
「しっ、シルファ、何やってんの?」
 ようやく貴明の思考は事態に追いついき、至極真っ当な質問が口をついた。
 シルファはちゅぽんと指を口から抜くと、それに対して真顔で答える。
「怪我は舐めれば治るってこの前パパが教えてくれました。だから……」
 そこまで言うと、再び貴明の指を咥える。
「あ、ああ。なるほど……?」
 あまりにもすぱっと断言されてしまい、勢いに押されてなんとなく納得してまう貴明。
 結局どういうことなんだろうと、「んー?」と首を傾け思索顔。
 今のって結局どういう理屈だったのか、必死に考えているようだった。
 そしてすぐにその顔が紅潮する。
 おそらく今の彼の頭の中には、数日前シルファに口元を舐められた記憶が蘇っているのだろう。
「まっ、待ったシルファ!」
「ふぁい?」
 口の中で舌をちろちろと動かして指を舐め続けるシルファにストップをかける。
 指を咥えたまま顔を上げるシルファに、貴明はゆっくりと話しかける。
「えっと、確かにこの前は舐めとけば治るって言ったけど、だからってなにも治すには必ずしも舐める必要があるってわけじゃなくって」
 どこかしどろもどろな口調。
 シルファはそんな貴明の言葉に真剣に耳を傾ける。
 じぃっと見つめるその瞳は、もしかして余計なことをしてしまったんじゃないかという不安に翳ってくる。
「だからその……」
 どこか悲しそうな瞳が貴明を映しこむ。
 だんだんと言葉尻は弱くなっていき。
「えっと……わざわざありがと」
 結局、口から引っこ抜こうとしていた腕から力を抜き、シルファの頭を撫でるのだった。
 とことんシルファに弱いらしい。
「ふぁいっ、ふぁんふぁりまふ」
 頑張ります、と言ったのだろう。
 今の一言でシルファに火がついてしまったようだ。
 やっぱり怪我を舐めるとパパは喜んでくれる。
 間違った知識が独り歩きを始め、俄然張り切るシルファ。
「んちゅ」
 一寸の漏れもないように、口に含んだ親指を丹念に舐めこんでいく。
 貴明は困ったような照れたような赤い顔をして、そわそわと視線を泳がせてばかりいる。
 いつ終わるとも知れない丁寧なシルファの応急手当に、先に貴明の忍耐が限界を超えた。
「あ、あのさシルファ、もう大丈夫だよ」
「ふぇ?」
 今度は躊躇を見せず、シルファの口からそっと指を引き抜く。
「もう痛みも引いたし、きっとシルファのおかげだよ」
 照れくさそうに笑いながら椅子から立ち上がる。
 ほら、と見せられた貴明の指は、確かに怪我らしい跡はもうない。
「なっ、もう治っちゃってるだろ?」
「……はい、すごいです」
 種を明かせば元から怪我などはしていなかったのだ。
 ただ力いっぱいシャープペンの芯を押してしまったせいで凹んでいただけで、穴が開いたり血が出たりと言うことは一切ない。
 それを説明しようとしたのだが、シルファの視線に圧し負けてあの様だ。
 今さら怪我なんかしてなかったんだよーなんて言うこともできるはずがなく、ここはシルファのおかげで奇跡の完治をしたということにしてしまおうという腹だ。
 根が素直で純真、それでいて貴明を信頼きっているとなれば、シルファがその善意の嘘に騙されない道理はない。
 今のシルファはパパの役に立てたという達成感に満たされている。 
 そして膨れる期待。
 この前みたいに、ううん、この前よりも、いっぱいいっぱいぎゅっとしてもらえるかもしれない。
 期待で一杯の眼差しを貴明に向ける。
「……えっと、どうかした?」
 しかし貴明はハテナ顔。
 何気なく紡がれたその一言に、高いところから地面にたたきつけられたような衝撃がシルファの頭を突き抜ける。
 ありていに言えばショックだった。
 そのときのシルファの落胆ぶりは傍からでも目に見えてわかる。
 そういえばさっき舐めている最中に一度頭を撫でてくれた。
 じゃあ今回のご褒美はそれでおしまい?
 もしかしてパパが怪我したらなんて思った罰?
 じゃあやっぱりパパは私が悪い子だったから怒ってるの?
 パパは悪い子のシルファは嫌い?
 嫌いになったからぎゅっとしてくれないの?
 ほんの数秒のわずかな時間でネガティブな思考が積もり積もる。
「パパッ、ごめんなさいっ、これからはいい子にするから嫌いにならないでくださいっ」
「えぇ!? 突然何!?」
 しばらくの間呼びかけても何の反応もしなかった相手が、突然嫌いにならないでっと縋るようにしがみついてくれば、それは貴明でなくても驚くだろう。
「落ち着いて。大丈夫、嫌いになんかならないから」
「……本当ですか?」
「当たり前だよ。だいたい、なんで急に俺がシルファを嫌いになったなんて思ったの?」
「それは……えっと」
 言葉を濁し、逡巡する。
 何度も口を開こうとしては閉じ、視線を貴明と床の間で行き来させる。
「この前パパの怪我を舐めたら、たくさんぎゅってしてくれたから……」
「……あぁ」
 シルファの言葉に貴明は小さく声を漏らす。
 すぐに思い当たったのだろう。
 照れくさそうに笑顔を引きつらせると、気恥ずかしさを誤魔化すように頭を掻いてそっぽを向く。
 貴明にしてみれば消してしまいたい記憶だった。
 なにせ、衝動的にシルファを抱きすくめてしまったあの事件のことなのだから。
「だからその……今日もまた、してくれるのかなって思って……わっ、私……ごめんなさいっ」
 シルファはかぁっと顔を真っ赤に染め、身を縮こまらせてしまう。
「なるほど」
 貴明もここまで来れば、自分とシルファの間にあった認識の齟齬を理解することが出来たのだろう。
 シルファは、あれをご褒美と受け取っていたのか。
 確かにあの時、乱入してきたミルファに「起こしてくれたお礼」などと無理やりな言い訳をしたのは事実だった。
 だが聡いシルファはその言葉を額面通りに受け取ることはしなかった。
 もっとも、それでもシルファの理解は貴明の本心からは程遠いところにあったのが。
「傷の手当のお礼ね、うん」
 貴明の目が、つい先ほどまでシルファの口に包まれていた親指に向けられる。
「ま、いいか」
 シルファには聞こえないくらいの小さな声を零す。
 さっと周囲を窺うと、シルファの頭にぽんと手を置き、体を屈めて視線を合わせる。
「怪我の手当て、ありがとな」
 にこりと笑って見せると、その腕をシルファの華奢な背中へと回し、ぐっと力を込める。
「えっ、きゃっ?」
 シルファの小さな体は、抱き寄せられるようにして貴明の胸に収まる。
 あの時と同じくらい強く、シルファは今、貴明に抱き締められていた。
「あんまりこういうのって慣れてないけど……こんな風でいいのかな?」
「――っ」
 言葉にならない言葉の代わりに、シルファはこくこくと何度も首を縦に振って肯定の意を示す。
 そっか、と安心したように呟くとと、貴明はそのまま抱き締める力を強め、シルファの顔を自分の胸に埋めてしまう。
 平静を演じられるのはそこまでが限界だったのだろう。
 自分の赤くなった顔を見られないようにとの、ささやかな意地を張る。
 もっとも、シルファはそんな貴明の心情など知らずに、ただただ幸せそうにその胸に頬を摺り寄せていた。
「さすがに、こういうのはちょっと恥ずかしいけど」
 どれくらいの間そうしていただろうか。
 未だ抱き合ったままで、ぽつりと貴明が口を開いた。
「ちょっとだけ嬉しかったかもな。シルファって、いつも我慢しすぎだから、もうちょっとわがまま言ってもいいんだよ」
「そんなこと……わぷっ」
 何か言おうとして顔を上げようとしたシルファの頭をさっと手で抱く。
 貴明の顔はまだ赤いままだった。
 もう一度貴明の胸元に顔を埋めたまま、シルファはもう一度言う。
「そんなことありません……。私、すごくわがままです」
 くぐもった声が、貴明の胸元にこそばゆい感触を残す。
「それこそ『そんなことない』と思うけど……」
「言葉にしないだけで、いっぱいいっぱいわがまま言ってます。パパはいつも、そのわがままを叶えてくれてます」
「……そうだっけ?」
 シルファは声に出さず、貴明の服をぎゅっと握ることでその問いに答える。
 イエス、と。
「ま、そういうことにしておこうか」
 そう言って、もう一度だけ、シルファを抱く腕にぎゅっと腕に力を込める。
「あっ」
 驚きと、そして嬉しさが混じりあったようなシルファの小さな声が上がる。
「ああ、そうそう。シルファ、一つだけ、俺のわがままも聞いてくれるかな?」
「パパの……わがまま?」
 顔を胸に埋めたまま窺うように視線だけを向けてくるシルファに、貴明は苦笑を浮かべてそっと囁いた。
「今日のこと、ミルファにはナイショな」

 

end