「貴明、朝よー」
暖かな布団のぬくもりに包まれた至福の時間を妨げる声。
夢心地にあった意識が浮かび上がるより早く布団を剥ぎ取られ、その身を冷えた空気に晒される。
先ほどまでの暖かさを求めてもぞもぞと周囲をまさぐるが、その手に布団が触れることはない。
「……んー」
急速に頭が覚めてくる。
否、強制的に覚まされるといった方がいいかもしれない。
どうやらこれ以上惰眠を貪ることは叶わないらしい。
自分でも緩慢と自覚できるくらいのろのろと体を起こし、開ききっていない眼で周囲を見渡す。
「寒い……」
反射的にぶるっと身を震わせる。
布団がほしい。
もう一度たしたしと周囲をまさぐってみる。
しかしやはりこの手が布団を掴むことはなかった。
「貴明寒いの? じゃあ私が暖めてあげようか?」
耳に届く『暖めてあげる』という言葉。
今の俺にはそれが何よりも魅力的な響きに思えて、反射的に頷いた。
「うん……」
「それじゃあ」
ふと、何かがぎゅっと体を押さえつけるように圧迫している。
それは決して不快な感覚ではなく、その暖かな温もりとあいまってまるで布団に包まれているかのように心地よい。
先ほどまでの身を切るような寒さとの落差もあり、それはさながら極楽浄土。
もともと眠気半分の頭だったのだ。
すぐにまたうとうととして、つい座ったまま船を漕ぎ出してしまう。
「あー、寝ちゃダメだってば」
俺を暖めてくれているはずの布団がゆさゆさと体を揺らす。
なんだ、最近の布団は目覚し機能でもついているのか?
閉じかけた目を開くと、視界に入ってくる景色は見慣れたはずの自分の部屋。
だがその景色と自分の間に、なにやら自分の部屋には本来ないはずの色彩、目も覚めるような赤いなにかが挟まっていることに気付く。
ぼやける視界の先にその赤を捉え、じっくりと凝視する。
「……んー?」
だんだんとあやふやな輪郭がはっきりと浮かび上がってくる。
その正体が、はっきりとするより一瞬早く。
「おはよう、貴明。今度こそちゃんと起きた?」
にっこりと笑う赤毛のメイドロボが、にゅっと触れるか触れないかのすぐ傍まで顔を寄せてきた。
朝な夕なに〜朝の陣〜
「ねえ、なんでさっきから怒ってるのよぅ」
「だから別に怒ってないって言ってるだろ」
ドア越しに聞こえてくるミルファの声に返事をしながら、上着のボタンを外して脱ぎ捨て、代わりに制服に袖を通す。
冷えた布地が体の体温と一緒に僅かにあった眠気の残滓を完全に奪っていく。
「でも貴明、なんだか素っ気無いんだもん……」
素っ気無い。
ミルファがそう感じるのも仕方がないかもしれない。
何せ、ついさっきあんなことがあったんだ。
恥ずかしさのあまり、さっさと部屋の外に追いやってしまったのだが、それがよほどミルファの心の琴線に触れたのだろうか。
「もしかして、さっきのことを怒ってるの?」
何度怒っていないと答えても、ミルファは俺の態度がよほど気になるのかさっきから延々と同じ質問を繰り返して食い下がってくる。
「でもでもっ、あれは貴明がいいよって言ったんじゃないー」
肯定もしていないのにミルファは勝手に言い訳をはじめる。
メイドロボの範疇から外れた、それこそ人間そのもののような言動だ。
とはいえ、あながち的外れな勘繰りというわけでもないんだよな。
怒ってるわけじゃないけど、原因は間違いなくアレなわけだし……。
いいと言ったと言われたって、俺は全然そんなこと覚えていないし。
「だいたい、私と貴明の仲なんだし、アレくらい挨拶みたいなものじゃない。ねっ、ほら」
「うわぁ!?」
いつの間にか気配もなく部屋に入ってきていたミルファが、後ろからがばっと着替え途中の俺の体に腕を回し、ぎゅうっと力いっぱい抱きついてくる。
「ね?」
「ね、じゃなくって。は、離れてっ」
「えー。なんでよぅ」
不満そうな声をあげられようと、俺もここは引けない。
ろくにボタンも留めていない前開き状態のカッター一枚の上からこんな風に抱きつかれて穏やかに笑っていられるほど俺の精神は成熟していないのだ。
「まだ着替えてる最中だろっ」
「着替えさせてほしい?」
「ほしくありません」
一向に離れようとしないミルファを何とか引っぺがし、背中を押しやりもう一度部屋の外へとご退場願う。
クマ吉のときの癖なのか、どうにもミルファは過剰なスキンシップを好む傾向にあるから困ったものだ。
まだドアの向こうからぶちぶちと聞こえてくるミルファのクレームは、俺が着替え終えるまで止むことはなかった。
「はい貴明、召し上がれ」
「いただきます」
席に着き、テーブルの上に並ぶミルファの用意してくれた朝食に向って手を合わせる。
朝から一汁三菜と満ち足りた食事を摂れるとは、家事の不得手な男子学生には過ぎた贅沢だ。
感謝の気持ちを忘れずに、今日もまたその幸せを享受します。
「おいしい?」
「うん。おいしいよ」
「よかった」
いつも同じように繰り返されるやり取り。
誰かにご飯を作ってあげるなんてことしたことがないから知らなかったが、作る側からすればおいしいという言葉は何度言われても嬉しいのだという。
だから俺はおいしいと思ったら素直にそれを口にするようにしている。
「うんうん、今日もいっぱい食べてね」
「……やっぱり見られてると落ち着かないんだけど」
ミルファは何が楽しいのか、いつもいつも俺が食事している最中はじいーっと俺のことを見ている。
今でこそいくらか慣れはしたが、それでもまったく気にならなくなるわけではない。
「えー、だって私ご飯食べられないんだもの。代わりにご飯食べてる貴明を見てるくらいいいじゃない」
それって全然代わりにはならないんじゃないだろうか。
「俺を見てたって腹は膨れないだろう……」
「膨れるよっ! もうお腹いっぱいになるんだから!」
「そ、そうなんですか……」
聞こえるように言ったつもりはないのに、ミルファは耳聡く俺の呟きを拾い聞くと、息荒くぎゅっと拳を握り締め、がたんとテーブルに身を乗り出し猛然と主張した。
あまりの迫力に圧倒されて大人しく頷いてしまったが、見られるだけで満腹になられるのもちょっと嫌な気がするぞ。
しかし今のミルファにそんなことを言える勇気もなく、ずずっと味噌汁と一緒にそのセリフを呑み込んだ。
「ん。おいしい」
「へっへー。もう貴明の味の好みはばっちりだからね」
びしっと得意げな表情でVサイン。
「でもさ、毎朝毎朝来てくれるのって大変じゃないか? 俺はいざとなったら朝は適当に用意するし、無理しなくてもいいんだぞ」
「そんなこと気にしてくれるくらいなら、貴明がウチに引っ越してきてくれればいいのに」
「うっ」
藪をつついたら蛇が出た。
下手に話の乗るとどうなるかわからないので、聞こえなかった振りをして卵焼きをつまむ。
「私をこの家に置いてくれるんでもいいんだよ? 私としてはそっちのほうがいいかなぁ」
ミルファはそんなこと気にもせず、さらに話を進めようとする。
窺うような視線がちらちらと飛んでくる。
……三十六計逃げるにしかず。
「あー、いっけね。もうこんな時間だ」
時計を見てわざとらしく大声を張り上げ、がつがつと残っていた朝食を平らげると、慌しく席を立つ。
そのまま椅子にかけられた学ランを引っつかんで洗面所に駆け込んだ。
「もー、貴明この話になるといっつもそうなんだから」
少し遅れて、ミルファがとたとたと洗面所へやってくる。
でも時間にもうあまり余裕がないのも本当だったので、ミルファはそれ以上何も言わず、大人しく俺の後ろに立っている。
「はい、カバン」
「ありがと」
タオルで顔を拭き終えると、俺の支度が済んだところを見計らって手に持っていたカバンを渡してくれた。
どうやらリビングに置きっぱなしなのをわざわざ持ってきてくれていたらしい。
それを受け取り、ミルファと二人で玄関に向う。
「それじゃ行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
「……なんで玄関を塞ぐんだよ」
口では行ってらっしゃいとか言っておきながら、ミルファは玄関の前に陣取るという、見送りとはまったく真逆のことをする。
「もう、とぼけちゃって。わかってるくせに」
おっしゃるとおり、心の底ではミルファのこの行動が何を意味するのかわかっている。
なにせ望まざるにせよ日課となってしまっていることなのだから。
それでもわからない振りをしてしまうのはある種の現実逃避なのかもしれない。
「はい、い・つ・も・の」
そう言ってミルファは目を閉じると、軽く爪先立ちになり、んっと唇を突き出してくる。
「行ってきますの、ちゅー」
「今日は勘弁してくれよ。ほら、あんまり時間もないことだし。な?」
「んー」
聞いていない。
いや、聞こえてはいるのだろうが、つまり却下の意思表示ということか。
「ミルファ、本当に今日は時間がないんだって」
さっき時計を見た限りでは、このみを迎えに行くことを考えるともうかなりのギリギリだったはずだ。
自然と声にも焦りがにじみ出てくるが、それでもミルファは頑なにどこうとしない。
……くっ、しょうがない。
「んっ」
ミルファの肩を掴んで、ヤケクソ気味にその頬に唇を触れさせる。
いつもいつもなんだかんだと言って、結局選択の余地がなくなってしまうのだ。
「むー、またほっぺ?」
そこで不満げな声を漏らされてはたまらない。
俺にしては最大限譲歩しているというのに。
「ほら、もういいだろ」
「えー、ダメー。だって昨日よりも唇から遠いもん。もう一回」
「そんな横暴な!?」
思い返せば、最初は額で誤魔化していたのを今のと同じような文句を付けられ頬にシフトし、そうなってからも日に日に頬から唇へとキスする箇所を近づけさせられている。
もしかしてこれって一種の調教ってヤツなんじゃないだろうか。
……なんというか、メイドのすることとは対極なんじゃないか、それ。
「ほら、貴明。時間なくなっちゃうよ?」
そう思うなら素直に道を譲ってくれればいいのに。
しかしミルファにはそんな理屈は通じないことは十分に承知していた。
ああもう、どうとでもなれっ。
「んっ」
もう一度、さっきよりもより唇に近い位置に口付けをする。
「はい、よく出来ました」
満足そうに笑うと、ミルファはようやく玄関の前をどいてくれる。
「いってきますっ」
「いってらっしゃいー。今日も頑張ってねー」
慌てて玄関を飛び出す俺を、今日もミルファはのんきな声で送り出すのだった。
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