目が覚めて、最初に視界に飛び込んできたのは一面の茶色だった。
 なぜ世界が茶色に染まっているんだろう。
 まだ半分眠っている頭で考える。
「……んー?」
 眠気覚ましにまぶたをこすろうとするが、俺の手は目的地の目にたどり着く前に、なにやらふかふかしたものにぶつかった。
 そこにきて、ようやく頭が完全に覚醒し、現状を把握することが出来た。
「……お前か、クマ吉」
 夕べ寝る前には枕元にいたはずのクマ吉は、どうやら寝ている間に俺のすぐ真横にまでやってきていたらしい。
 声をかけると、クマ吉はまるでおはようといった風に手をあげる。
 まるで、というか、それはまさに朝の挨拶なのだろう。
 だから俺も挨拶を返す。
「うん、おはよう、クマ吉」


 Complete"K"


「はぁ」
 寝覚めはあんなにさわやかだったのに、今は正直気が重い。
 時間はあるのだが、学校へ行くというのが億劫で、なんだか朝飯を食べる気分にもなれない。
 昨夜は結局考えることを放棄して、明日になったら考えればいいと先延ばしにしてしまったのだが、いざこうなると昨日のうちに対策を練っておかなかったことが悔やまれる。
「やっぱサボっちゃうかな」
 一時的な場凌ぎにしかならないが、今の俺にはその一時的な時間さえもありがたかった。
 うん、今日はサボるか。
 制服へと着替えかけていた手を止め、またパジャマに着替えようとしたところで、頭上のクマ吉からぽかりと一発もらってしまう。
 どうやら学校をずる休みするなと諌めているらしい
 そういえばどっちにしろクマ吉を預かっているのだから、休んだところで家まで押しかけてくるだけの気がする。
「はぁ」
 本日二度目のため息と共に、今日も元気に登校することを決意した。
「ん? おい、何やってるんだクマ吉」
 俺の決意など露知らず、クマ吉は何かを見つけたらしく、猛然と体を伝って俺の頭から降りると、目的の方向へ向かって走っていく。
 その先にあるものはベッド。
 というか、ベッドの下………………ってまずいっ!
「待てクマ吉っ!」
 止めようとしたが、遅かった。
 クマ吉は見事、ベッドの下からわずかにはみ出していた目的のブツ、雄二から押し付けられてそこに隠していた水着のグラビア本を発見せしめたのだった。
 別に18歳未満お断りの内容というわけでもないし、俺だって男なんだからそういうものを持っていたところで責められる謂れもないのだが、やはりクマ吉とはいえ他人にそれを見つけられてしまうとどこか気まずい思いだった。
 しかも、クマ吉のパーソナリティは女の子だというのならなおさらだ。
 ……自分の裸を見られるよりもはるかに気まずいぞこれは。
「いや、それはだな?」
 つい言い訳を始めてしまう。
 なんて弱いんだろう、俺。
 が、クマ吉は俺の言葉などまるで聞いておらず、グラビア本をぱらぱらとめくっていく。
 ………あれ、なんでだ?
 クマ吉の人格が女の子だというなら、普通ならそんな本なんかに興味を持ったりはしないと思うのだが。
 にも関わらず、クマ吉はページぱらぱらとめくりを、黙々と本を読み進めていく。
 いや、黙々とってのはしゃべれないんだから当たり前か。
 ともあれ、クマ吉の行動には疑問を持たざるを得なかった。
 もしかして、クマ吉はホントは男の子だとか?
 それとも単に物珍しいだけとか……あ、そうかも。
 何せクマ吉はロボットだ、今自分が見ているものが何なのかも分かっていない可能性もある。
「ふぅ」
 そう考えると、少しばかり安心した。
 思い返せば、もしかしたら昨日からの行動もそういった知らぬものへの探究心からの行動なのかもしれない。
 そうだよな、普通そう考えた方が自然だ。
 今まで気付かなかったけど、今までのクマ吉の行動がデータ採取のためというものでないとすれば、あれはまるで心があるような行動だったのだ。
 今現在、ロボットは心を持てないとされている。
 それはロボット工学最高峰の来栖川を以ってしても不可能といわれているのだ。
「…………」
 背を向けてぱらぱらと本のページをめくっていくクマ吉を見て、なぜか寂しい気持ちがわいてくる。
 ……そっか、俺ももう、クマ吉のことを友達だって思ってたのか。
 そのクマ吉が心を持っていないと気付いてしまい、こんな気持ちになっているのだろう。
 そうしてしばらく見ていると、本を読み終えたらしいクマ吉が立ち上がった。
「って、しまった」
 つい感傷に浸ってしまっていたが、その間に結構な時間が経ってしまっている。
「クマ吉、学校行くぞ。もうあんまり時間がない」
 呼びかけてやると、クマ吉は一つ頷き俺のほうへと歩き出すが、すぐにくるりと振り返ってあの本の元へと戻る。
 何をするのかと思えば、クマ吉は全身を使って本を持ち上げると、そのままよろよろとゴミ箱のほうへと歩いていくと、持っていた本を思い切りゴミ箱に投げ捨てた。
「…………お前、ホントに心無いのかよ?」
 まるで人間みたいな行動を目にし、ついそんな疑念を口に出す。

 

「きりーつ」
 いつもの教室、いつもの風景。
 ようやく今日一つ目の授業が終わる。
 だが、そんな中で一つだけいつもと違うことがあった。
「れーい」
 クラス中がいっせいに頭を下げるが、俺だけは下げない。
 いや、下げられない。
 その理由こそ、いつもとは違うもの、即ち俺の頭の上にいるクマ吉だった
「まったく、お前のせいで散々だ」
 今朝もまた、いつもの場所で待っていた珊瑚ちゃんたちと一緒に学校に来たのだが、そこで珊瑚ちゃんに返すはずのクマ吉は、俺の頭の上から降りるのを頑なに嫌がった。
 それを見た珊瑚ちゃんはいともあっさりと

『しゃあないなぁ。ほな貴明、放課後までみっちゃんのこと、よろしくな』

 と言って、結局俺はクマ吉を頭に乗せたまま遅刻ギリギリで教室に飛び込む羽目になってしまった。
 これまで長いこと学生生活を送ってきたが、クラス中の視線が自分(の頭の上)に集中するのを感じたのは初めてだった。
 誰も彼もが『それはなに』と真っ当な質問を投げかけたそうにしていたが、幸か不幸かすぐに教師がやってきて、そのまま授業へと突入し、今へ至る。
 ちなみに、一時間目を受け持っていた先生は、俺の頭の上をぎょっとした顔でしばらく凝視すると、何事もなかったかのように授業を始めてしまった。
 ……きっと俺、あの先生の頭の中ではいないことにされたんだよ。
 ちょっとだけいじける。
 さて、そんなわけでクラスのみんなにとっては、今ようやく溜まりに溜まった疑問をぶつける機会がめぐってきたわけで。
「河野くん、それなになに」
「いやぁ、かわいいー」
「そのクマ、もしかして動いてない?」
「えーうそー、じゃあこの子ってロボット?」
「すごーい」
 いつもの小牧も顔負けとほどに、まるでよく振って空けた炭酸飲料のごとく、人の波がどっと押し寄せてきた。
「あ、いや、その」
 運の悪いことに、頭の上のものがクマのぬいぐるみだと言う理由からか、押し寄せてくるのは女子ばかり。
 正確に言えば、男連中も興味はあったのだろうが、女子の勢いに押されてここまでたどり着けなかったのだろう。
 その一方で、女の子が苦手な俺としては、それを悟られぬよういつもの態度を保とうとするのが精一杯で、質問になど答えている余裕はどこにもない。
「ねーねー、だっこしてもいい?」
「あ、わたしもー」
 大人気のクマ吉。
 おかげで俺の周囲には女子の壁ができている。
 何とか抜け出したいところだが、そうすると女の子の体にもろに触れてしまうことになる。
 それはできない。
 困り果てていると、遠くでこちらを見ている雄二の姿がちらりと視界に映る。
「ゆっ、雄二っ、助けてくれっ」
 藁をも掴む思いで助けを求めるが、当の雄二は。
「くっそー、貴明の野郎上手いことやりやがって。まさかそんな手で来るとは」
 などとぶつぶつ言って、俺の言葉なんぞ聞いちゃいなかった。
 くそ、藁にすらならないヤツめ。
 雄二は頼りにならないと分かると、いよいよ以ってどうしようもなくなってしまう。
 もはやこれまでかと諦めかけたそのとき、救世主は現れた。
「きゃっ、いったーい」
 それは他でもない、女の子にもみくちゃにされていたクマ吉本人だった。
 クマ吉を抱き上げようと俺の頭に伸ばしてきた手を、思い切り打ち払ったのだ。
 それから、今度は周囲の女子に向かって威嚇するようにぶんぶんと腕を振り回す。
 ……結構乱暴モノだったんだなクマ吉。
 そういえば俺も会っていきなり攻撃されたっけな。
 まあ、あれは俺に非があったみたいだけど。
 とにかく、突破口が見えた。
「こらっ、ダメだろクマ吉。ごめんな、こいつ急に人がいっぱいで興奮しちゃってるみたいなんだ」
 女の子に向かって話しかけるとことでものすごく緊張してしまっているが、せっかく掴んだチャンスを無駄にしてはいけないと、そんなことをおくびにも出さず言葉を続ける。
「ちょっと静かなところにいって落ち着けてくるよ」
 だから通してくれと、言外に言う。
 向こうもそれを察してくれたのか、素直に道を空けてくれる。
 そのまま廊下まで出て、やっと一息。
「ふぅ」
「河野くん」
「うわっ! ……って、なんだ、小牧か」
 女の声に驚き慌てて振り向くと、そこには俺と同じように驚いた顔をした小牧がたっていた。
 どうも俺があまりに過敏に反応したために向こうもびっくりしてしまったらしい。
「ごめん、急に声をかけられたもんだから。えっと、それで何か用だった?」
「あ、うん。たいしたことじゃないんだけどその子なんだけど」
 そう言うと、小牧の視線がついっと俺の頭の上に移動する。
 ……クマ吉のことかな。
「もしかして昨日の子なのかなって思って」
「ああ、そうか。小牧はこいつに会ってたんだっけ。うん、ちょっとした事情でさ、あのあと一日こいつを預かることになったんだ」
「そうだったんだ」
 まあ、小牧の誤解を解く手伝いをしてくれたお礼、なんてことはわざわざ言わない方がいいだろう。
「きゃあ」
「あ、こらっ、クマ吉!」
 そんな風に小牧ととりとめもなく会話をしていると、なんと突然クマ吉は小牧にまで向かって手を振り回して威嚇すると、しっしと追い払うような仕草をする。
 もしかして、小牧も自分をもみくちゃにするのかと警戒しているのだろうか。
「クマ吉、大丈夫だよ。小牧はあんなことしないから」
 落ち着かせようとしても、クマ吉の動きは一向に収まらない。
 さっきの騒ぎのせいで本当に興奮しちゃっているのかもしれない。
 最悪、何かの拍子でどこか故障してしまった可能性もある。
「ごめん、俺ちょっと珊瑚ちゃんのところにいってくる」
「あ、はい。気をつけて」
 そう言って、小牧は俺を見送ってくれた。
 しかしいったい校舎の中で何を気をつければいいのだろうか。
 まあ、そんな言い草が実に小牧らしいといえばらしいのだけど。


 珊瑚ちゃんに見てもらったところ、クマ吉は特に異常は見当たらないそうだ。
 となると先ほどの行動に理由がいまいち分からない。
 寄り集まってきた女子だけでなく、なぜ小牧にまであんな攻撃的な態度を取ったのか。
 ……まあいいか。
 今はクマ吉がどこもおかしくなかったことを喜ぼう。
 ほっと胸をなでおろして教室に戻ってくると、小牧が教室の後ろに紙をぺたぺたと貼っている。
 いったいなんだろうと思って小牧の後ろから肩越しに貼り紙を覗いてみると、そこにはこう書かれていた。

『クマ係:河野貴明』

 …………なにそれ。

 

 

 放課後、コンピュータ室を訪ねると、今日もそこには珊瑚ちゃんと瑠璃ちゃんがいた。
「貴明、るー」
「またヘンタイがきたぁ。ヘンタイは立ち入り禁止や。とっととでてけー!」
「あかんよ瑠璃ちゃん、そんなこと言うたら、貴明ホンマに帰ってまうで?」
「望むところやん」
「またぁ、瑠璃ちゃんは照れ屋さんやなぁ。もっと素直にならなあかんよぉ」
「あーぅー。だからちゃうって昨日から何べんも言うてるのにー」
 ……やっぱりまだ誤解は解けていなかったようだ。
 奇しくも瑠璃ちゃんは、俺と同じ苦労を背負うことになってしまったようだ。
「貴明、ゆっくりしてってな」
「ゆっくりせんと、はよ帰ればええねん」
 相変わらず好意剥き出しの珊瑚ちゃんと敵意剥き出しの瑠璃ちゃん。
 双子で見た目もそっくりなのに、それに対する態度はきっかり180度違っている。
 ……足して二で割るとかって、やっぱりできないかなぁ。
「いいよ珊瑚ちゃん、今日はクマ吉を返しに来ただけだから。用が済んだらすぐ帰るよ。だから瑠璃ちゃんも安心していいよ」
「そんな遠慮せんでええのに」
 俺はひょいと頭の上のクマ吉を持ち上げ、珊瑚ちゃんに渡してやる。
「おかえりみっちゃん、楽しかった?」
 クマ吉は珊瑚ちゃんの質問にこくこくと答え、次いでなにやら複雑な動きを開始する。
 確か昨日も同じようなことをやっていたな。
 つまりこれは、まだ俺では理解することの出来ない高度なジェスチャーだ。
 きっと、昨日今日と俺と一緒にいた間のことを報告しているのだろう。
「…………」
 あれ、何か引っかかるような。
 なんだろう……報告? ほうこく…………。
 しばし考えたところでハッとする。
 頭にフラッシュバックする今朝の光景。
 まずい。
 どうする?

 絶対的危機に、授業中眠りっぱなしだった俺の脳細胞がフル活動を開始する。
 クマ吉の口止めはできない。
 例え出来たとしてもロボットである限りメモリーやらなんやらでクマ吉が見たもの聞いたことを知ることがきっと出来てしまう。
 つまり絶対にこのことは知られてしまう。
 今俺がすべきことは秘密の隠匿ではない。
 逃走だ。

「それじゃあ俺はこれで。二人ともまたね」
 おそらく3秒にも満たない時間だったろう。
 かつてないほどに高速処理された思考が割り出した答えに従い、俺は即座に帰宅することを決める。
 三十六計逃げるにしかず。
「あー、貴明まってー。もうちょっとゆっくりしてけばええやん」
 が、珊瑚ちゃんはがしっと俺の腰に掴まり、引き止めてくる。
「いや、でも」
「飲み物でも飲んでって。そんで、いっしょに帰ろー」
 腰に掴まったまま、珊瑚ちゃんはにっこりと笑う。
 くっ、これくらいならば無理やり引き剥がすことも出来るが……。
 だが、問題は珊瑚ちゃん相手にそんなことが出来ない俺だった。
 こうなれば、瑠璃ちゃんの帰れコールに一縷の望みを。
「……飲み物ならウチが買ってきたる。ちょっとまってて」
「え……」
 先ほどまでの言葉をあっさりと翻し、瑠璃ちゃんは自ら買出しを買って出た。
 しかも、珊瑚ちゃんがこんな風に俺にしがみついているのに何も言わない。
 ……なぜだ、もしかしてそうすることが今の俺への最大の嫌がらせだと気付いたからか?
「やたー。ほな、貴明はここでウチとお留守番ー」
「いや、いいよ。俺帰るから。あ、ちょっと瑠璃ちゃんっ」
 俺の言葉など聞こえていないのか、瑠璃ちゃんはコンピュータ室を出て行ってしまう。
 こうなってしまっては、もはや先に帰るなどできない。
「……はぁ」
 今のうちに言い訳を考えておこう。
 覚悟を決めた俺だったが、残念ながらその時はすぐにやってきてしまった。
「ふんふん、貴明のベッドの下にえっちぃ本? 出てる女の子、みんな胸が大きかったん?」
 いや、ちょっと待て。
 俺はあの本を見てそんな女の子の胸の大きさを意識したことはないぞ。
「貴明、おっきい胸が好きやったんやなぁ」
「違うよ!」
 なんてことだ。
 珊瑚ちゃんの思い込みの激しさは折り紙つきだ。
 なんたって今のところ珊瑚ちゃんの誤解を解くことに成功した事例は一つもない。
「貴明、えっちやなぁ」
 がくりと膝をつく。
 もう珊瑚ちゃんの中で『俺=おっきい胸が好き』の構図が成立してしまっている。
 神様、俺、何か悪いことしましたか?
 せめてもの救いは、今この場に瑠璃ちゃんがいなかったことだろうか。
「おまたせぇー」
 そんなことを考えていると、ちょうど瑠璃ちゃんが両手に紙コップを持って戻ってきた。
「そんなとこで蹲ってどうかしたん?」
「いや、なんでもないよ」
「? まあええわ。ほい、貴明の分」
 瑠璃ちゃんは大して気に留めることもなくさらりと流すと、手に持っていたコップを片方、俺に渡してくれる。
「ありがと。えっと、いくらだった?」
「別にええよ。それよりはよ飲みぃ」
 さっきから瑠璃ちゃんが妙に親切だ。
 クマ吉を一晩預かったお礼かなにかだろうか。
「さんちゃんはうちとわけっこな」
「やたー」
 ま、つっかかってこられるよりはいいか。
 ありがたくカップに口付け、中のジュースを一口啜る。
「ぐっ!?」
 そのあまりのおかしな味に、思わず呻き声を上げてしまう。
 だが、呻き声で留め、口の中のジュースを吐き出さなかったことを誉めてもらいたいくらいだ。
 くそっ、そういうことか。
 瑠璃ちゃんが妙に親切なのは、この変なジュースを俺に仕込むためだったのか。
「? 貴明どしたん?」
「何でもあらへん。きっとジュースがおいしすぎて感動してるんや」
 不思議そうな顔の珊瑚ちゃんに、瑠璃ちゃんは適当な嘘をついて誤魔化そうとする。
 全ては瑠璃ちゃんの予定通り。
 が、ここに来て一つ、瑠璃ちゃんにも予想外のことが起きてしまった。
「そんなおいしいん?」
 そう言いながら、珊瑚ちゃんはおもむろに俺の持っている紙コップに手を伸ばそうとする。
「「ダメー!!」」
 仕掛けた者と仕掛けられた者、俺と瑠璃ちゃんの声が重なる。
 珊瑚ちゃんに被害を及ぼしたくないと言う点においては二人の考えは同じだった。
 俺はコップを珊瑚ちゃんの手の届かないように高く掲げ、瑠璃ちゃんは珊瑚ちゃんを紙コップから遠ざける。
「貴明、いじわるやぁ。ウチにジュースわけてくれへん」
「さんちゃんはウチとわけっこしよ、な?」
「やだー、ウチ、貴明とわけっこするぅ」
「さんちゃん〜」
 困り果てた顔をする瑠璃ちゃん。
 まさか珊瑚ちゃんがこんなわがままを言うなんて思ってもいなかったのだろう。
 くっ、しょうがない。
 ……いくらなんでも死にはしないよな?
 この状況を打破すべく、俺は決意を固める。
「んっんっんっんっ……ぷはー」
「た、貴明……」
 紙コップの中の液体を一気に飲み干した俺を、瑠璃ちゃんが驚いた顔で見る。
「お、おいしかったよ……。ご、ご馳走様……」
 そこまで言うと、急激にこみ上げてきた嘔吐勘に耐え切れなくなり、たまらず口を押さえて走り出す

 

「うぇ……。まだ胃の中が気持ち悪いや」
 死にはしなかったが、死ぬほど苦しい。
「貴明……」
「ん?」
 呼ばれて振り返った先には瑠璃ちゃんがいた。
 いつものような敵意は影を潜め、どこか申しわけなさそうな表情をしている。
「その……ありがとな」
「えっ、何が?」
 突然お礼を言われても、俺にできるのは戸惑うことくらいだった。
 俺、なにかしたっけ?
 わけがわからずにきょとんとする俺に、瑠璃ちゃんは確かめるように言った。
「さんちゃんがジュース飲まんようにしてくれたやろ……?」
「ああ、そういうこと」
 合点がいった。
 確かに珊瑚ちゃんに飲ませるわけにはいかないと思って飲んだけど。
「そんな大したことしたかな?」
「さんちゃん飲んだら、きっと一口で目を回してた」
 う、俺はそれを一気飲みしたのか。
「大したことじゃないよ」
 うん、そうだ。
 だって瑠璃ちゃんに言われるまでそんなの当たり前のことすぎてぜんぜん意識してなかったんだし。
 だから、これは俺にとってちっとも大したことではないのだと思う。
「……」
 ふと瑠璃ちゃんの表情が柔らかくなった。これはまるで、微笑んでくれているような……。
 きっとこれは、いつも怒っている顔しか見せることのなかった瑠璃ちゃんが、初めて俺に見せてくれた笑みだった。

 

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